詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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不定期論文 〈女性論〉 |
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《民間の才女(1)》 |
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2017年8月25日 |
の紀頌之”6”つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-031-#1巻175-14 對雪奉餞任城六父秩滿歸京(卷十六(二)九八四)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8957 |
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10年のBLOGの集大成 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-集16- 韓昌黎集字解集城南聯句 【字解集】【下】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8958 |
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10年のBLOGの集大成 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-137五律 麂(卷一七(四)一五三三)五律 杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8965 |
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (230)回目毛文錫巻五07酒泉子》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8981 (08/25) |
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10年のBLOGの集大成 |
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●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始 |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
玉-巻二27 和班氏詩一首 -#5〔傳玄〕 Ⅴ漢詩・六朝詩・文選・古詩源・唐宋詩詞漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8961 |
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Ⅵ唐代女性論 ninjaブログ |
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女性論
民間の才女(1)
民間の一般女性は数こそ多いものの、身分や地位に制限されていた。第一に、生活の貧困と様々な制約によって善い作品を書くことはそう簡単ではなかった。第二に、彼女たちの作品は外部に伝わることが難しく、今日我々が目にし得る作品ということで言えば、各人の作品数は少なく、題材も狭い範囲に限られており、薛濤のような大家は生れなかった。
1人目 楊容華、彼女は初唐の文壇四傑(王勃、廬照鄰、駱賓王、楊烱)の一人であった楊烱の姪であり、幼い時から詩文をよくした。ある時、楊烱は友人に容華が作った「鏡に向って朝の化粧をする」と題する詩を吟じたところ、その友から激賞された。ついで、楊烱は自分の詩数十首を吟じたところ、友は最初の詩に及ばないといったので、楊烱は冷や汗をかいた。この聡明な才女は女性たちのため大いに気を吐いたのであるが、残念なことに現在まで伝わっているのは僅かに次の一首だけである。
この「新妝詩」と題する詩は、当時の人々が争って伝誦したといわれる。
新汝詩
啼鳥驚眠罷,房櫳乘曉開。鳳釵金作縷,鸞鏡玉為台。
妝似臨池出,人疑向月來。自憐終不見,欲去復裴回。
啼く鳥に驚きて眠ること罷み、房櫳は曉に乗じて開く。
鳳の釵は 金もて縷と作し、鸞の鏡は 玉もて台を為る。
汝は池(仙界にある瑶池)に臨んで出づるが似く、人は月に向かって来るかと疑う。
自ら憐れむ 終に見えざるを、去らんと欲して復た裴回(徘徊)す。
2人目、牛應貞、父は牛粛(開元年間(713-741)の岳州剌史)、官僚の家の出身である。幼い時から驚くほど聡明であり、聴いたことはすぐ覚えた。披女は「賦」と「頌」という二つの文体がたいへん得意で、著書に『遺芳集』がある。彼女の「魍魎 影に問う賦」はたいへん有名である。彼女の死後、宋若昭が『牛応貞伝』を書いた。
才女牛応貞は博識多才で、十三歳でもう儒教経典、諸子百家、歴史書など数百巻、仏教経典二百巻を朗読できた。彼女は、「学問は、六芸(詩・書・礼・楽・易・春秋の六つの経書)全般にわたり、文章は諸子百家を兼ね、道家の秘言を頣い、釈部(仏教)の幽旨を采る」といわれ、儒仏道の三教に通じないところは無かった。彼女はまた夢の中で古代の哲学者の王弼、鄭玄、王衍らと名理(名と本質)を論じ、文章について語り合った。彼女の有名な著作「魍魎 影に問う賦」は、文学作品であると同時に哲学書でもあった。この作品は『荘子』の魍魎(霊魂)が影を責める話に基づいて、霊魂と影の問答に仮託して深遠な哲理を追究したものであり、女性が哲学を論じた、じつに稀な著作である(宋若昭『牛応貞伝』)。
3. 関図の妹は惜しいことに名も作品も伝わっていないが、一説によると彼女の文学、書簡は人の心を強くうったという。関図はかつて同僚に慨嘆して「わが家には一人の進士がいるが、残念なことには自分の髪に櫛も入れない女であることだ」といった(尉遅枢『南楚新聞』)。これによっても彼女がたいへんな才女であったことは疑いない。
4. 武則天の時、七歳でよく詩をつくる少女がいた。武則天は特に宮廷に招いて、披女に「兄弟を送別する」詩を作るよう命じた。するとすぐに、次の詩を作った。
送兄詩
別路雲初起,離亭葉正飛。
所嗟人雁異,不作一行歸。
別路 雲 初めて起こり、離亭 葉 正に飛ぶ。
嗟く所 人は雁と異なり、一たび行きて帰るを作さず。(七歳女子「兄を送る」)
5. 晁采 大暦年間の人といわれる。美しくて聡明、もの静かで文章も非常に上手であり、終日詩を吟詠していた。彼女は隣に住む書生文茂と愛しあい、常に詩をやりとりして愛情を伝えあった。彼女は、美しい言葉が珠玉のように連なり、節回しが人の心を打った、十八首の「子夜歌」を世に残した。たとえば、その十八首の一首に次のという恋歌がある。ものがある。
夜歌十八首之二
夜夜不成寐,拥枕啼終夕;
郎不信儂時,但看枕上迹。
夜夜 寐ることを成さざる,拥枕して 終夕 啼く;
郎が儂を信じざる時なれば,但看よ 枕上の迹を。
夜ごと眠れないのは、もちろん恋するあなたを思っているからで。起きる気にもなれないので終日枕を涙で濡らしている。もちろん恋するあなたが傍にいない事が、約億の日が過ぎても帰ってこないことで、あなたのことが信じられなくなっているときだから、不安で仕方なく、思い出しては涙を流すのです、だから、見てほしい、この涙の跡がしっかり残っているこの枕を。
子夜歌十八首之十八
儂贈緑絹衣,郎遺玉鉤子;
郎欲系侬心,依思著郎体。
儂は緑の絹衣を贈り、郎は玉の鉤子(玉の飾り物)を遺る。
即ち(郎は?)われの心を繋がんと欲し、儂は郎の体に著かんと思う。
6. 范陽の盧氏の母王氏は、八百十二字の天宝回文詩を作った。文字と文字がめくるめくようにからみ合い、韻はよく調和し典雅であった。この詩は玄宗の時代、東平太守によって朝廷に献上されたものである(『全唐文』巻三五七、高適「東平の薛太守の為めに王氏の瑞詩を進むる表」)。
唐代の文士の妻は、その多くが家庭における夫の詩文の友であり、常に夫唱婦随の楽しみをもっていた。大詩人元槇の先妻韋氏、後妻となった裴氏は共に才女であり、夫と詩詞のやりとりをしていた。「大暦の十才千」の一人であった吉中孚の妻張氏も閨門の才女であった。
また夫に代って詩文をつくる女性もいた。たとえば、進士孟昌期の妻孫氏は常に夫に代って詩の唱酬をしていた。進士殷保晦の妻はいつも夫に代って文書を書いた。この二人の夫人は「賢内助」(内助の功)と称するに足る人物であった。
才女、才婦たちは、詩文や賦頌を作ることで自分の哀しみや苦しみを解消したり、また自分の気持を慰めたりしただけではない。常に聡明さと才知を用いて詩文を作っては自分の愛情や憎悪を表現し、胸にたまった不平をはきだし、甚だしくは自分の運命にさえ抗ったのである。文学や詩詞はこれらか弱き女性が于にした一つの武器となった。