詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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不定期論文 《唐 女性と文学 5. 女冠詩人の李冶、魚玄機 (2) 》
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2017年12月2日 |
の紀頌之"6"つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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不定期論文 《唐 女性と文学 5. 女冠詩人の李冶、魚玄機 (2) 》 漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ9634
唐 女性と文学 5. 女冠詩人の李冶、魚玄機 (2)
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魚玄機、字は幼微、またの字は蕙蘭、長安の人。およそ晩唐に生きた人で、一般の平民か、あるいは下層官吏の家庭の出身だと考えられる。彼女は幼い時から詩をよくし、またたいへん美しかった。成年に達して李億の妾(側室)になったが、正妻の嫉妬が激しくうとまれた。後、身の置き所がなくなったのか、それともまたこのような抑圧的な生活に我慢ができず、この束縛をつき破ろうと願ったためか分からないが、結局、彼女は出家し戌宜観の女道士になった。この不幸な結婚生活は、詩の中で薄情な男に対する怨みの気持を表白させろ『ことになった。「無価(高価)の宝を求むるは易く、有心の郎を得るは難し」(「鄙女に贈る」)などと。しかし、彼女は心の火を消し去って、清浄で寡欲になったわけでは決してなかった。いやむしろ逆に、「自ら能く宋玉を窺う、何ぞ必ずしも王昌を恨まん」(同土)などと人胆に恋愛論を書いて、率直に封建道徳に対して挑戦を行った。彼女は過去の苫悩の生活を袖うつもりであったのか、それとも昔の束縛に対する反抗と報復の気持であったのか、いずれにしろ出家後は、勇敢にも一切をかえりみず自由と愛情を追い求め、束縛のない生活を送ったのである。彼女の美貌と詩才は多くの風流人士を引きつけた。彼らは着飾っては馬を走らせ、酒を持参し、彼女のところに通った。これら異性の友達は、ある者は彼女と筆硯の交りをし、またある者は彼女と枕を重ねる仲になった。彼女の李節、温庭筠、李近仁に対する恋慕の気持は、詩の中にはっきり表れている。惜しいことに、この多情の才女は、最後には多情多恨によって命を落すことになる。彼女は女童の縁梱が自分の愛人と関係したと疑って、この女童を打ち殺してしまった。事件が発覚した後、都の長官によって死刑に処せられた。当時、多くの官僚、士大夫や彼女と交際のあった人、またその名声を慕う人々が、彼女のために恩赦を願ったが、ついに彼女の命を救うことはできなかった。惜しいことに、この紅顔の才女は二十五歳で刑場の露と消えたのである。
* 宋玉は戦国時代の楚の詩人、美男子として名高い。王昌は伝説上の美人莫愁の初恋の人であったが、彼女を裏切った。薄情者のたとえに引かれる。
この類い稀れな女性が作る詩の題材は比較的広く、詩の風格もそれぞれに異なり、豪爽にして堂々たる男性的なものもあれば、清雅にして道家風の超俗的なものもあり、また哀怨の情を纏綿と綴った女性的なものもあった。これらはまさに様々な要素が重なり合った彼女の生活と心情を反映している。試みに次の詩を読んでみよう。
遣懷
閑散身無事,風光獨自遊。
斷雲江上月,解纜海中舟。
琴弄蕭梁寺,詩吟庾亮樓。
叢篁堪作伴,片石好為儔。
燕雀徒為貴,金銀誌不求。
滿杯春酒綠,對月夜窗幽。
繞砌澄清沼,抽簪映細流。
臥牀書冊遍,半醉起梳頭。
懐を遣る
閑散 身に事無く、風光濁り自ら遊ぶ。
雲を断つ 江上の月、纜を解く 海中の舟。
琴は蕭梁の寺に弄し、詩は庚亮の樓に吟ず。
叢篁 伴を作すに堪え、片石 儔を為すに好し。
燕雀 徒に 貴と為し、金銀 志として 求めず。
杯に満せば 春酒 緑なり、月に封して 夜窗 幽なり。
砌を繞って 清沼 澄み、簪を抽いて 細流に映す。
臥牀 書冊偏く、半酔 起って 梳頭す。
※ 蕭梁寺は梁の蕭祈の建衣した寺、庚亮楼は東晋の大臣庚亮の建てた楼。
遣懷 魚玄機 ⅩⅫ唐五代詞・宋詩Gs-102-38-#1 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ2057
魚玄機は唐代第一級の女性詩人というにふさわしい。つまり、数百人の男性詩人と比べても全く遜色がない。そこで彼女はかつて、「自ら恨む 羅衣の詩句を掩うを、頭を挙げて空しく羨む 榜中の名」(「崇真観南楼に遊び、新及第の題名の処を胆る」)と詠じ、自分が女であって男とともに金榜(科挙の合格発表者の掲示板)に名を掲げられて、その才華を示すことができないのを慨嘆した(以上の記述出典は、『唐才子伝』、『三水小碩』、『全唐詩』、『唐詩紀事』、『太平広記』巻二七一、二七三、一三〇など)。 土記の人以外で、詩詞を後世に残した女性の出家者としては洛陽の女道士元淳、慈光寺の尼海印などがいる。彼女たちの境遇や経歴はもはや分からない。残された詩詞から、その聡明さとすぐれた才能を知りうるだけである。