詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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2017年5月28日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-024巻183-05 寓言三首其三(卷二四(二)一三九三)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8789 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-95 先生-巻八-01#15城南聯句 §3 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8784 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-集-16 【字解集】 ・i.-別崔潩因寄薛據孟雲卿 ・j-寄韓諫議 杜詩詳注( Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8803 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (204)回目張泌 《巻四31 浣渓沙十首 其五》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8792 (05/28) |
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fc2 |
Blog |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
玉-巻二19 詠懷詩二首 其二昔日繁華子 -#1〔阮籍〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8793 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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唐代女性論 |
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七、商家の女性
那ぞ商人の婦と作リて、
水を愁い復た風を愁うるや
李白
唐代には商業の繁栄、商人の活躍がめざましく、そのため商人階級の女性たちが世間の注目を浴びる一群を形成した。しかし、彼女たちの間の貧富の格差は大きく、公主や貴婦人に等しい富を持つ大商人の夫人もいれば、零細な経営で苦しむ小売商人の女性もいた。大塩商の妻がどのような生活をしていたか見ておこう。
(塩商の婦) 白居易
墟跨の婦 金帛多し、田農と蚕績を事とせず。
南北東西 家を失わず、風水を郷となし船を宅と作す。
本と是れ揚州の小家の女、嫁し得たり 西江の大商客。
緑の鬘は溜去て金の奴多く、皓き腕は肥え来たりて銀の釧窄し。
前に蒼頭(下男)を呼び後に婢を叱る、爾に問う 何に因って此くの如きを得たる。
婿 塩商となりて十五年、州県(地方政府)に属さず 天子に属す。
毎年 塩利の官に入る時、少しく官家に入れ多く私に入る。
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紅の檜 黄の直 香ばしき圀販。
飽い食べ 濃い汝をし柁楼(船尾の操舵室)に倚る、両栞の紅い額 花 綻びんと欲す。
塩商の婦、幸い有りて塩商に嫁す。
終朝 美き飯食。 終歳 好き衣裳。
彼女たちは終日飽食し、けばけばしい化粧をし、下男下女を意のままに使った。なんという快適、なんという贅沢さであったことか。これはごくまれな現象ではなく、唐代の豪商の家にいる婦人の生活はしばしば王侯貴族の女性のそれを越えていたようである。
しかしながら、商家の婦人にもそれ特有の悩みがあった。唐詩の中には商家の女たちの悩み、恨みを描いた大量の詩がある。それらは彼女たちに共通する心理をじつによく反映しており、また彼女たちの特殊な生活と憂愁の情が社会の注目を浴びていたことを示している。
第一に、商人は東奔西走し、水陸の間を往来したので、波や風、強盗の出没、健康状態、生命の安危などが商家の婦人の最大の心配ごとだった。「那ぞ商人の婦と作りて、水を愁い復た風を愁うるや」(李白「長千行」)、「揚州の橋の辺の少婦、長安の市裏の商人、二二年 消息を得ず。各おの自ら鬼を拝し神に求む」(王娃「江南三台詞」)という状態だった。
第二に、「商人は利を重んじ、別離を軽んじた」(白居易「琵琶行」)ことである。商人は常にあちこち漫游し、数年も帰らず、ある者は花柳の巷に遊び、妻子を忘れ去った。それで商家の婦人たちは往々にして半生を孤独に過ごし、夫婦の長い別離を悲しみ、夫の薄情を恨んだ。「商人の婦と作るを悔む、青春 別離長し」(李白「江夏行」)、「商人に嫁与ぎて頭白からんと欲するに、未だ曾つて一日も双行たるを得ず。君が利を逐うて江海を軽んずるに任すも、風や濤を妾の似く軽んずる英れ」(劉得仁「貫婦怨」)。心配、思墓、寂寞、怨恨、こうした感情は商家の婦人たちの裕福な生活の中における「楽しまざる」ところであった。 唐代の女性の中には自分で商業を経営するものも少なくなかった。しかしながら、彼女たちの大多数は小規模の商売で、大商人の出現などなかったようである。ただ段成式の著した『剣侠伝』の中に、唐代後期のこと、揚州に寡婦として暮らす女商人荊十三娘というものが資産を持っていた話が出てくるが、彼女はきっと富商であったろう。その他の書物に見える者はみな中小商人であり、その中では飯屋、酒屋、旅龍などを開くものが多かった。『太平広記』に次のような話がある。注州の西に板橋店という宿場があり、宿屋の女将の三娘子は一人者だが、広さ数間の家屋を持ち、料理屋を開いて大変豊かであったという話(巻二八六)、洛陽の敏財里に郭大娘という女性がおり、酒場を開いていたという話(巻三八二)、また謝という姓の一婦人が酒を売って生業としていたという話(巻一三四)などである。また『唐国史補』に、王積薪というものが夜旅龍に泊ったところ、主人は丁入の老婆で息子の嫁と一緒に経営しており、雑貨の小売りもしていた、という話がある。また、唐の太宗に仕えた名臣馬周の妻はもともと「蒸し餅売りの女」であった(『甫部新書』丁)。『太平広記』にはその他に「履物売りの老婆」、「着物売りの女」等々の例も記されている。こうした女性たちの大半は都市や田舎町に集中し、東奔西走する行商人ではなかった。
商業を営む女性のなかで、いささか目を引くのは「胡姫」(西域出身の美女)である。彼女たちは中原に移ってきた少数民族の女性で、大半が長安などの大都市で酒場を開いていた。彼女たちの店は特に詩人や名士にひいきにされ、李白などは常々「五陵の年少 金市の東、銀鞍白馬 春風を度る。落花踏み尽くして何処にか遊ぶ、笑って入る胡姫の酒肆の中」(「少年行」)という具合であった。
唐詩の中には、他に胡姫の酒場を歌った詩がたくさんあり、詩人たちの筆による酒場はたいへんロマンチックな雰囲気に溢れていた。
「胡姫 春酒の店、弦管 夜 鍵銚。紅組 新月を鋪き、紹表 薄霜に坐す。玉盤(高級磁器) 初めて鯉を檜にし、金鼎 正に羊を烹る。上客は労れて散ずる無く、歌を聴く楽世娘(曲名)」(賀朝「酒店の胡姫に贈る」)
「研艶は江の頭に照り、春風は好き客を留む。墟に当たって妾が慣れたるを知り、酒を送って 郎の為に羞ず。香渡って蕉扇(芭蕉の扇)に伝わり、汝成って竹楼に上る。銭を数えて皓き腕を 憐れむ、是れに非ざれば留むる能わず」(楊巨源「胡姫詩」)
これらの詩を見ると、胡姫たちは酒場で酒を売るだけではなく酒席にはべり、歌をうたい、舞をまっていたことがわかる。現代のホステス、酒場の踊り子にち太っと似ている。彼女たちは一般に代々商売していた家の娘であり、商売上于であった。彼女たちの酒場は異国情緒に溢れていたから、才子や名士、五陵の少年などが常時集まって来たのも尤もなことであり、胡姫は詩人たちが興味津々で話題にする当代の人気者となっていた。