詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅳ 政略婚《§-1 烏孫王に嫁いだ細君》7. 武帝の匈奴経略と張騫の西域行
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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(Ⅳ 政略婚) 《§-1 烏孫王に嫁いだ細君》7. 武帝の匈奴経略と張騫の西域行 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10637
中国史・女性論
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主)
Ⅳ-§-1 烏孫王に嫁いだ細君
1. 和蕃公主
2. 最涯の地烏孫に嫁いだ細君
3. 建国の英雄冒頓単于
4. 匈奴遊牧王国の出現
5. 漢の高祖と冒頓単于
6. その後の漢帝国と匈奴との関係
7. 武帝の匈奴経略と張騫の西域行
8. 烏孫族と月氏族
9. 対匈奴攻守同盟策
10. 望郷の歌―黄鵠の歌
Ⅳ-§-1 烏孫王に嫁いだ細君
Ⅳ-§-1-7 武帝の匈奴経略と張騫の西域行
武帝の匈奴経略と張騫の西域行
武帝が即位したころの漠帝国は、文帝、景帝二代にわたって蓄積された国と 庫は充実しており、高祖の死後呂太后の専権で・しばらくの間がたついていた漠室の権勢も、ようやく強化されてきた。漢帝国の国力が上り拍子なのにひさか、え、そのころ匈奴王国では、第三代軍臣単子の治下で国力は下り坂をたどりつつあった。
武帝は、このような形勢をふまえて宿敵の匈奴に対し、高祖以来の守勢から攻勢に転じるべく、遠大な計画をめぐらすことになった。武帝の匈奴経略の方針は、南正面ではオルドス・陰山方面から、東方は朝鮮半島と満洲方面から、また西方は河西回廊(甘粛省西部)・教壇および遠く天山山脈方面からというように、東・西・南の三万面から大きく包囲して旬奴を北方に追いつめ、その衰滅をはかることであった。
このために、匈奴の西面にあたる西北モンゴリアのイリ河流域に、大月氏王国を建てていた月氏族が、かねてから匈奴に対し怨念をいだいて報復の機会をうかがっているとの情報1この情報は、後述するように、すでに旧聞のものであったが1を入手していたので、武帝は張鴛をイリ河畔の大月氏国に派遣して、匈奴に対し漠と攻守同盟を締結させようと企図したのであった。建元二(前一三九)年のことで、これが史上張賓の第一次遠征といわれるものである。
なお、この張騫の第一次遠征に関する重要事項を、桑原喘蔵博士「張騫の遠征」(『桑原鵜蔵全集』第三巻所収 岩波書店刊) によって左に表示してみよう。
前229〜前219 (建元二〜元光六) 匈奴に捕わる (約十年間)。
前一二九 (または前一二八) 大月氏に達す。
前一二九〜前二一八 (元朔元) 大月氏の大夏 (トカラ) に滞在 (一年余)
前二一八年末 帰国の途につく
前二一七〜前一二六 匈奴に再び捕わる (約一年)
前一二六 (元朔三)中ごろ 帰国
張騫はこの第一回だけでなく、前後二回にわたって西域へ遠征したが、なかでも、いまいった建元二年に出発した第一回目の大旅行は、途中匈奴に約十年間 (前二二九-前一二九) も捕われたりして、前後十三年の歳月を要した。
ところが、張騫が匈奴に抑留中の前二二三年(?)ごろ、月氏族はイリ地方からすでに西南万遠く中央アジアのソグヂィアナおよびパクトリア方面に移住して、その地に大月氏遊牧国家を建てて安住し、匈奴に対する報復の念も放棄していたため、前二一九(または前一二八)年ごろ、張騫は大月氏のもとの領国に至ったものの、所期の目的 - 漢朝との同盟1を達することができなかった。
しかし、かれの旅行で、西域方面の事情も漢朝がわにかなり明らかになり、かつ西域諸国と中国との公の交通も開かれはじめ、珍奇な西域の物産も輸入されるようになって、漢帝国がこの旅行によって、副次的にえた成果は大きかった。
一方、武帝は西便した張騫からの消息が、十三年間もの長い間とだえたため、前一三三(元光二)年の馬邑城事件 - 国境近くの馬邑城へ匈奴軍をおぴきよせて斌滅しようとしたが、この作戟は、匈奴の軍臣単千の気転で失敗に終わった-をきっかけに、漢軍だけで匈奴軍攻撃を敢行することを決意した。
以後十余年間 -本格的な戦いは、元光六(前一二九)年から元狩四(前二九)年まで- にわたり、漢・匈奴両軍は、たがいに死闘をくりかえしたが、匈奴にとって不運であったのは、この困難な情勢のさなかの前二一六年(長剣匈奴抑留中)に軍臣単于が死んで、後継者争いがおこったことである。内紛はやがて治まり、弟の俳衡靴単干(前三六〜二四)が新しく立ったものの、内紛と漢軍の攻勢をさけて、新単子はついに、冒頓単于以来の根拠地であった、いまの呼和浩特市付近から遠くゴビ沙漠をこえた北方のノイン・ウラ付近(いまのモンゴル人民共和国首都ウランバ-トル市の北北西)に本拠地を移すことになった。これに乗じて、武帝は、元朔五、六(前一二五、四)年ごろ、大将軍衛青に命じて匈奴遠征の軍をおこした。
おもうに、張騫が西域の長い旅から帰国したのは、その前年(前一二六)のことであるから、張騫からえた匈奴に関する新しい情報と、この衛青の匈奴遠征とは、なんらかの関係があるものかと考えられる。というのは、張騫はこのとき匈奴討伐軍に従軍して、かれが旅行中にえたモンゴリアの地形や遊牧民に関する経験と知識とをもって、この作戦に貢献して大功をたて、博望侯に封じられているからである。
武帝は前119(元狩四)年にも、衛青と驃騎将軍の霍去病をして、単于の北モンゴリアの本拠(ノイン・ウラ)を襲撃させて匈奴軍を撃滅したが、こうして漢軍は、いくたびか匈奴軍に打撃を与えて、ついに、かれらのかつての本拠地であった漠南のオルドス・河西の地を回復することができた。
これよりさき武帝は、とりあえず元朔二(前127)年以後、オルドスに朔万郡と五原郡とを設置して、その経営にあたらせることにしたが、さらに黄河をへだてて、オルドスの西方につらなる河西地区の経営を敢行するにあたって、必要になってきたのが、烏孫族との関係であった。