忍者ブログ

中国文学 李白・杜甫・韓愈・李商隠と女性詩 研究

詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。

不定期論文 《唐 女性と文学 1.はじめに 》 漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ9606

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

不定期論文 《唐 女性と文学 1.はじめに 》 漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ9606

不定期論文  《唐 女性と文学 1.はじめに 》

 

20171128

の紀頌之"6"つの校注Blog

10年のBLOGの集大成

   李白総合案内

 

●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説

Ⅰ李白詩(李白集校注)      LiveDoor

746-009卷一七四 日魯郡堯祠亭上宴別杜補闕范侍御(卷十五(一)八九五)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集Blog9552

Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注      LiveDoor

806年元和元年39歳- 先生-巻15-02答竇秀才書 -#2 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集9574

Ⅲ 杜詩詳注                  LiveDoor

767年-162 復愁十二首 其六(卷二○(四 )頁一七四二)注(1180) Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ9540

杜甫詩 全詩 総合案内 

Ⅳブログ詩集漢・唐・宋詞  fc2Blog

花間集 訳注解説 (305)回目和凝巻六30《柳枝三首其一  》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ9562 (11/28)

.唐五代詞詩・女性・玉臺新詠     Livedoor

玉-巻三-12 樂府三首其二 前緩聲歌-#3(扶桑升朝暉) 〔陸  機〕 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 9542

Ⅵ唐代女性論ブログ唐代女性論

不定期論文 《唐 女性と文学 1.はじめに 》 漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ9606

杜甫全詩案内

韓愈全詩案内

李白全集

李白詩のサイト

古詩源

花間集案内

漢詩・唐詩・宋詩研究

http://kanbunkenkyu.web.fc2.com/

不定期論文  《唐 女性と文学 1.はじめに 》 漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ9606

 

 

 

唐 女性と文学

 

 

1. はじめに

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 崇高な文学の殿堂にあって、唐代の女性は輝かしいばかりの異彩を放っていた。

 中国の各時代の女性たちは、しばしば文学の領域でその優れた才能と知恵を発揮してきた。唐代という、この文学が大いに繁栄した時代、とりわけ詩歌が最も隆盛であり、最も普及した時代には、文人墨客が天下のいたるところにおり、三尺の童子さえ書を知らないことを恥としたばかりでなく。髪飾りをつけた女性さえも文を重んじ詩を習う風潮に大いに染まった。

辛文房が、『唐才子伝』の中で、「唐は雅道(書画文学など風雅の道)を士族に奨励したので、名家の御夫人たちもその風に染まった。彼女たちの華麗な表現力と豊かな感情は尚ぶに足る」と言っている通りである。唐代は後宮の妃蹟から名門の貴婦人、金持ちの令嬢、読書人の千女、貧家の娘、さらに尼や女道士、娼優、姫妾、甚だしくは青衣を着た婢に至るまで、よく字を識り書を読み、詩文を巧みに作ることができた。こうして、女性が文章や詩を作る風潮が蔚然として起り一代の気風となったのである。白居易はかつて得意気に、自分の詩はやもめ暮らしの女性や若い娘にまで口ずさまれていると述べたことがある(『旧唐書』白居易伝)。女性たちが詩を習い詩を好むことが随分普及していたことが分かる。

 

唐代の人々はその著作の中で才女をたいへん褒め讃えており、そこに描かれた女性たちは村の農婦から、女仙人、女幽霊に至るまで皆よく文章や手紙を書き詩をものしない人とてなかった。当時の人々の才女への敬慕は時代の風潮となり、甚だしくは熱狂的といってもよいほどにまで達した。唐の会昌年間のこと、ある婦人が三郷という駅の壁に一首の詩を書いた。それは、私は夫に従って西方の函谷関に行ったが、夫が死んでしまったので空しく帰らねばならない。謝娘(東晋の女流詩人)、衛女(東晋の女流書家)ももう待ってくれてはいない。私は雨となり雲となっても故郷の山に帰ろう、という内容だった。これが思いがけなく評判になって、多くの文士が相い唱和したが、その詩詞の中にこの女性に対する傾倒、思慕の情が溢れていた(『雲渓友議』巻五)。以上の諸例は、詩文を習う気風が当時の女性たちにとって一般的であったことを反映しているばかりでなく、当時の社会が女性たちのこうした風潮を尊重し、また称讃さえしていたことを実感させてくれる。

 まさにこうした風潮によって、唐代には大量の女詩人、才女が生れ、多くの優れた詩文が後世に残されたのである(胡文楷『歴代婦女著作考』上海古籍出版社、一九八五年)。もし、唐代の女性文学にどのような特色があるかといえば、当然、作者たちの共通性‐―-つまり、人数が多く、またあらゆる階層に及んでいたこと、しかも優れた成果をあげた才媛が生れただけでなく、佳作を残した無名の女性たちも少なからずいたことーを指摘しておかなければならない。

 この時代全体の流れに沿うように、唐代の女性の最大の業績も詩詞にあった。詩歌詞曲などというものは、いつの時代にも道学先生たちから見れば、最も人心を乱すもので、女性が極力避けるべき不経の学であった。たしかに、詩詞はロマンチ″タな感情を尊び、最も人々の精神をとき放ち、感情を奔流せしめ易いものである。唐代社会の開放的雰囲気は、女性たちにも詩を読み、詩を作る機会を与えたばかりでなく、彼女たちがその才能を自由に発揮して、あるいは豪放に、あるいは繊細に、あるいは風流に、あるいは清雅に、胸の奥底にある感情を表現したさまざまな風格の詩詞を生み出すことを可能にした。だから、今日それを読む人々に、依然として情趣に溢れ力強く仲び仲びとした精神を惑じさせるのである。

拍手[1回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
漢文委員会 紀 頌之(きのあきゆき))
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1946/09/10
職業:
文学者
趣味:
中国文学
自己紹介:
漢詩から唐・宋詩まで基本となる詩人・詩集を各全詩訳注解説してゆく、その中で、これまで他ブログに、掲載した女性の詩を、手を加えて、整理して掲載してゆく。
これまで日本では紹介されていないもの、誤訳の多かった詩などを、時代の背景、出自、その他関連するものなどから正しい解釈を進めてゆく。
毎日、20000文字掲載しているので、また、大病後で、ブログコミュニケーションが直ちに取ることができないけれど、精一杯努力してお返事いたします。

P R