詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅳ 政略婚 《§-1 烏孫王に嫁いだ細君》6. その後の漢帝国と匈奴との関係
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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中国史・女性論
Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主)
Ⅳ-§-1 烏孫王に嫁いだ細君
1. 和蕃公主
2. 最涯の地烏孫に嫁いだ細君
3. 建国の英雄冒頓単于
4. 匈奴遊牧王国の出現
5. 漢の高祖と冒頓単于
6. その後の漢帝国と匈奴との関係
7. 武帝の匈奴経略と張騫の西域行
8. 烏孫族と月氏族
9. 対匈奴攻守同盟策
10. 望郷の歌―黄鵠の歌
Ⅳ-§-1 烏孫王に嫁いだ細君
Ⅳ-§-1-6.その後の漢帝国旬奴との関係
高祖の死後、その子孝恵帝(恵帝)の治世七年間と、呂太后(高祖の皇后) の摂政期の八年間、またつぎの孝文帝(文帝) の治世の初期六年間(前一七九〜前一七四) の約二十二年間は、旬奴では冒頓単千の時代であったから、漢朝に対しては終始騒慢・尊大な態度をとり、両国の間は、表面上和平をよそおってはいるものの、匈奴軍の中国への部分的俊次皿はやまなかった。
たとえば、『前漢書』巻九四、「旬奴伝」に収める冒頓が呂太后に送った書状をみても、漢帝国など眼中にないような傍若無人さがよくうかがわれる。このとき勝気の呂太后は、大いに怒って旬奴を討伐しようとしたが、句奴の実力を知る丞相の陳平や李布らは、高祖平城の敗戦を引いて必死に説得したので、太后も思いとどまり、返書して和親をつづけることとした。
孝文帝が立つと、またあらためて両者は和親の盟をかためたが、しかしこの和親の盟も、やがて句奴の背信によって破れ、両国の関係は再び険悪になった。このとき(孝文帝四年)冒頓単千は、使者をつかわし書を送って和議を提案したが、その書状をみると、さきの呂太后への書簡にもまして尊大をきわめている。しかし、孝文帝はこの提案を許し、前一七四年遣使して返書したので、三度び両国間の和議が成立することになった。
孝文帝がおくった返書は、たまたまこの年(孝文六年、前一七空冒頓単于が死んだので、つぎに立った老上単千のもとにおくられたわけであるが、栗原朋信教授によると、孝文帝のこの報書は、一尺一寸の憤(木簡) であったのに対し、句奴単子のものは一尺二寸の憶で、それに用いられた封印も漢がわのものより、一まわり長大であったといえば、この点からでも匂奴単千の尊大さがわかるであろう。
以上が冒頓単于時代の勾奴と漢との関係のあらましであるが、匈奴では前一七四年に第二代目の老上単千が立つと、孝文帝はまた宗主の女を公主として降嫁し、老上単子の関氏とした。
このとき百官の彗柿誠が、公主の働徴として遣わされたが、かれは早手の信任を、享、その左右のものに書記や計数を教えたり、また毎奴の支配層にナショナリズムを鼓吹して、漢帝国への対抗心をかきたてることに努めたという。これについて『史記』の「旬奴伝」には、中行説が単千を教導して旬奴の人口は少なく、漢の一郡の人口にも相当しません。だのに旬奴が強いのは、衣食が漢人と異がい、漢から供給をうける必要がないからです。いま単千がその句奴の習慣を廃止して、漢の物資を好むならば、やがて旬奴はことごとく漢に帰服するでしょう。漢からえた棺繁を着て草や棟の中を走れば、その衣・袴はみな裂け破れるでしょう。給繁は髭裳の完全なのに劣ることをお示しなさるがよい。また漠の食物はみなすて去って、撞酪が便利で美味いことをお示しなさるがよい。
といったと伝えている。
このようであったから、たびかさなる和議も永続せず、孝文十四(前一六六年)には、十四 ㍍
万騎の旬奴軍が河西(甘粛省西部) に侵盗して、多数の人・富を掠奪している。それ以後毎年のように、かれらは西は河西地区から、東は遼東地方までの北辺全域にわたり侵遠をくりかえして、人・畜を劫掠したのであった。そのため漠がわは、北辺の防衛に努めはしたものの、旬奴軍の侵逼範囲は広域にわたったので、漢軍はそのたびに応戦に苦しみつづけた。
孝文帝の後元四 (前一六〇) 年毎奴の老上単子が卒し、第三代目の軍臣単千が立つと、旬奴軍はまたまた和親を絶って、北辺の上郡・雲中郡などに大挙して侵入し、殺椋をほしいままにした (前一五八) が、このたびは、漢がわの防衛体制が厳しかったので、まもなく句奴侵入軍は引き揚げたという。
後元七(前一五七)年に、孝文帝(文帝) が没して孝景帝(景帝) が立つと、帝は句奴との和親に心をくぼり、単子に公主を降嫁するとともに、国境の貿易場を開放して、物資を供与したりしたので、孝景帝一代は、境上で多少のトラブルはみられるが、大規模な侵遠はなかった。そして前一四〇年に孝景帝を承けて孝武帝(武華 が即位すると、漠帝国は回初以来の旬奴に対する屈辱的な和親策を一概し、帝国の威信をかけて一大攻勢に転じることになった。