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中国文学 李白・杜甫・韓愈・李商隠と女性詩 研究

詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。

Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと)) 《§-5 班固と西域経営》Ⅲ-§-4-5. 班勇(つづき) 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10581

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Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと)) 《§-5 班固と西域経営》Ⅲ-§-4-5. 班勇(つづき)

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-§-4-5. 班勇(つづき)

班 超

班 超(はん ちょう、32 - 102年(建武9 - 永元14年)は、中国後漢の軍人。字は仲升(ちゅうしょう)。雍州扶風郡平陵の人。封号は定遠侯。父は班彪、兄妹は兄の班固、妹の班昭。子は長男の班雄と三男の班勇(字:宜僚)ら、孫は班始(中国語版)(班雄の子)。歴史家一家に生まれたが、一人武人としての成功を望み、西域(現在の新疆ウイグル自治区あたり)から北匈奴やクシャーナ朝を追って後漢の勢力を広げ、その後は西域都護として長く西域を保持した。『後漢書』では「燕頷虎鬚」と描写される。

 

西域平定

明帝期

73年(永平16年)、明帝は奉車都尉の竇固(中国語版)を大将として北匈奴征伐に乗り出し、班超は仮司馬として参軍した。

 

竇固は将兵を別けて伊吾を攻め、班超は蒲類海の戦い(現バルクル湖(中国語版))において多くの首級を挙げた。

 

この働きに竇固は班超の有能さを認め、班超を従事の郭恂と34人の部下とともに西域諸国への使者として向かわせた。

 

鄯善国(楼蘭)に使者として行った時に、初めは歓迎されたのが次第に雰囲気が悪くなってきた。その時北匈奴の使者も来ていたのである。このままでは殺されると考えた班超は怯える部下達に「虎穴に入らずんば虎子を得ず(不入虎穴焉得虎子)」と勇気付けて、北匈奴の一団に切り込んだ。班超たちは36人しかおらず北匈奴ははるかに多かったが奇襲を受けた北匈奴の使者達は慌てふためき、見事班超たちの大勝に終わった。これにより鄯善国は漢に降伏した。

 

その後も班超は36人の小勢で于国(ホータン)王の広徳を降伏させ、冬には疏勒国(カシュガル)に行き、北匈奴側であった亀茲王の建によって疏勒王に取り立てられていた亀茲左侯の兜題を捕え、建に殺された前疏勒王の成の兄の子である忠を立てて疏勒王とした。

 

これらの班超の活躍により西域の南半分は後漢の勢力に置かれた。

 

章帝期

しかし、75年(永平18年)、明帝が崩御すると、これに乗じた焉耆国は漢に叛いて、西域都護の陳睦を殺害し、亀茲国、姑墨国は疏勒国を攻撃した。疏勒国にいた班超は盤橐城を守り、疏勒王の忠とともにこれを防いだが、不利と見て一旦于国に退いた。ふたたび疏勒国に戻った頃には疏勒城、盤橐城の両城が亀茲国によって陥落しており、疏勒国は尉頭国と寝返っていた。班超はすぐに疏勒国の反逆者を斬り、尉頭国を撃破して、疏勒国を取り戻した。

 

即位した章帝は西域都護を廃止し、西域を放棄した。章帝は班超たちにも帰還命令を出したが、「漢軍が引き上げれば、その後には当然北匈奴たちが舞い戻り、漢に味方した者を皆殺しにするだろう」と班超は西域の王や貴族達に泣きつかれ、残る事を決意した。しかし、班超は本国から絶縁されてしまい、三十余人の部下と共に5年間、疏勒に留まることを余儀なくされた。

 

80年(建初5年)、始めて本国より千余人の援兵を送られる。これ以降、事態は好転していった。

 

84年(建初9年)、班超は疏勒国、于国の兵を発し、莎車国(ヤルカンド)を攻撃した。莎車国は陰で疏勒王の忠と密通しており、忠はこれに従って反き、西の烏即城に立てこもった。すると班超はその府丞の成大を立てて新たな疏勒王とし、忠を攻撃した。これに対し康居国が精兵を派遣してこれを救ったので、班超は降せなかった。この時、クシャーナ朝(大月氏)は新たに康居と婚姻を結び、親密な関係となったため、班超は使者を送って多くの祝い品をクシャーナ王ヴィマ・タクト(閻膏珍)に贈った。これによって康居王が兵を撤退させ、忠を捕えたので、烏即城は遂に班超に降った。

 

87年(章和元年)、再び莎車国を攻撃し、救援にきた西域連合軍(莎車・亀茲・温宿・姑墨・尉犁)を詭計を用いて撃破する。これにより莎車国は後漢の支配下となった。

 

同年、クシャーナ王ヴィマ・タクトは後漢に遣使を送って扶拔(シマウマ?)・師子(ライオン)を献上した。この時、クシャーナ朝の使者は漢の公主を求めたが、班超は拒否し、使者を追い返した。

 

和帝期

90年(永元2年)5月、求婚を断られたためかクシャーナ王ヴィマ・タクトは副王の謝を派遣して班超を攻撃したが、班超は持久策を用いてこれを撃退した。これ以降、クシャーナ朝は後漢に毎年貢献するようになる。

 

91年(永元3年)、班超は亀茲国を攻撃し、降伏させた。班超は司馬の姚光と共に亀茲国王の尤利多を脅して廃立させ、新しい王に白霸を立てた。尤利多は姚光に洛陽まで送還させた。班超は亀茲国の它乾城に常駐し、長史の徐幹は疏勒国に駐屯した。

 

同年12月、和帝は西域都護府を復活させ、班超を西域都護に任じた。

 

94年(永元6年)、班超は焉耆国、危須国、尉犁国、山国を撃ち破り、焉耆王と尉犁王を斬首した。これにより西域の50余国は後漢に内属し、さらに班超は焉耆左侯の元孟を新たな焉耆王とした。

 

これにより長きにわたる西域平定が完了し、これら功績によって95年(永元7年)3月、班超は定遠侯に封ぜられた。

 

西域平定後

97年(永元9年)、部下の甘英を大秦(ローマ帝国)、條支(シリア?)に派遣し、国交を求めようとしたが、甘英は行き着くことができなかった。

 

100年(永元12年)、班超は西域にいる事31年におよび、故郷の漢土が懐かしくなり、朝廷へ帰国の嘆願書を出した。

 

その願いが聞き入られ、102年(永元14年)八月、班超は洛陽に帰還したが、一ヶ月後の九月に故郷で死去した。享年71

 

班超がいなくなると、羌が涼州で反乱を起こしたので、漢の西域への支配力が低下し、西域は北匈奴の残党やクシャーナ朝の勢力の影響下に入った。その後、漢は班超の子の班勇らを派遣して再び西域諸国を支配したが、班勇が西域を去ると、西域諸国は漢に反逆し、結局、漢は班超がいた頃の勢力を取り戻す事は不可能であった。

 

その後を長子の班雄が継ぎ、孫の班始の代になると、班始は陽城公主(劉堅得)(中国語版)(順帝の大伯父の清河孝王劉慶の娘)を娶ったが、陽城公主は淫乱で、従子の順帝と密通した。妻の不義の行為に激怒した班始は、妻の不倫相手の順帝に対して儒教の定義に触れると激しく諫言した。そのために順帝の逆鱗に触れてしまい、投獄されて腰斬に処せられて、あわせて班始の同母兄弟も処刑されて棄市された。130年(永建5年)のことであった。

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プロフィール

HN:
漢文委員会 紀 頌之(きのあきゆき))
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1946/09/10
職業:
文学者
趣味:
中国文学
自己紹介:
漢詩から唐・宋詩まで基本となる詩人・詩集を各全詩訳注解説してゆく、その中で、これまで他ブログに、掲載した女性の詩を、手を加えて、整理して掲載してゆく。
これまで日本では紹介されていないもの、誤訳の多かった詩などを、時代の背景、出自、その他関連するものなどから正しい解釈を進めてゆく。
毎日、20000文字掲載しているので、また、大病後で、ブログコミュニケーションが直ちに取ることができないけれど、精一杯努力してお返事いたします。

P R