詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと 《§-4 班固と西域経営》Ⅲ-§-4-4. 班勇
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと 《§-4 班固と西域経営》Ⅲ-§-4-4. 班勇 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10546
中国史・女性論 Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと) §-1 女流文学者班昭 Ⅲ-§-1-1 才媛、班昭 Ⅲ-§-1-1『女誡』七章 §-2 班家の世系 Ⅲ-§-2-1班家の世系 Ⅲ-§-2-2班彪 §-3 班固と『漢書』 Ⅲ-§-3-1.班固とその兄妹の生き方 Ⅲ-§-3-2.『漢書』の編纂 Ⅲ-§-3-3.『漢書』と『史記』 Ⅲ-§-3-4.史記・漢書両書の社会的背景の相違 Ⅲ-§-3-5.晩年の班固 §-4 班固と西域経営 Ⅲ-§-4-1. 武人、班超の夢 Ⅲ-§-4-2. 漢と匈奴と西域諸国 Ⅲ-§-4-3. 班超と後漢の西域経営 Ⅲ-§-4-4. 班勇 |
中国史・古代女性論
Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと) |
§-4 班超と西域経営 |
§-4-4 班勇と班超 |
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班勇
班超には三子があり、長を雄、少子を勇といった。雄は、屯騎校尉をへて京兆尹となり長安に卒した。その嗣子を始といい、かれは清河孝王の女陰城公主に尚したが、公主の淫乱を怒ってこれを殺害した罪で、永建五(二二〇)年に腰斬・棄市された。
班勇は班の三子のうちでも、いちばんよく父に似ていた。安帝のとき摂政の鄧太后に召されて、西域経営について献策したのが、やがて認められて延光二(130)年には西域長史となって柳中に駐留した。かれはその後、鄯善・亀茲・姑墨・温宿・車師をはじめ疏勒・莎車・于闐など西域十七国を服属させて偉功をたてたが、永建二(三七)年焉耆国を攻めたとき、期におくれたため召還されて獄に下され、のちゆるされて家に卒した。かれも班家の血をうけて文筆の才があり、いまの『後漢書』西域伝は、かれの記録によるところが多いといわれる。
120年 漢安帝永寧元年
北匈奴が西域を脅かしたため、敦煌太守・曹宗が安帝の許可を得て、長吏・索班に千人を率いて伊吾(新疆哈密)に駐屯させた。
車師後部王が北匈奴の指示を受けて共に索班を攻めて殺した。
曹宗は兵を発して北匈奴を攻めるよう朝廷に請うが、敦煌に護西域附校尉が置かれただけだった。
北匈奴が車師後王の軍を率いて伊吾を攻め、車師後王国にいた東漢の司馬と敦煌長史・索班等を殺すと、東漢に帰順した車師前王を駆逐し、北道を制圧しました。
鄯善王国が敦煌太守・曹宗に救援を求めます。曹宗は五千の兵を出して匈奴を撃ち、索班の仇をとることを朝廷に申請しました。しかし公卿の多くは玉門関を閉じて西域との関係を断つよう主張します。
鄧皇太后が軍司馬・班勇(班超の子)に意見を求めると、班勇はこう答えました「かつて孝武皇帝は匈奴の強盛を憂い、西域との道を開きました。光武皇帝が中興した時は、国外の事に手をつける余裕がなく、匈奴が西域諸国を支配することになりました。しかし孝明皇帝が戦略を練り、虎臣(班超等)に西域を出征させた結果、匈奴は遠くに遁走し、辺境に安寧をもたらしました。そして永元年間(和帝の時代)、西域の全ての国が漢に帰属するようになりました。
ところが最近、羌族の乱があり、西域との関係が再び途絶えたため、北虜(北匈奴)が西域諸国に高額の貢物を強要し始めました。鄯善も車師も北虜を怨み、漢の保護下に置かれることを願っています。
今まで西域で反乱が起きたのは、官人に統治の能力がなく、ひどい場合には西域の人々を迫害したからです。今、曹宗は索超の恥を雪ぎ仇を討つためだけに匈奴を攻めようと主張していますが、国庫が乏しく援軍を送る余裕もない中、遠征軍を組織しても失敗するのは明らかです。よって曹宗の要求を聞き入れるべきではありません。
今は永平年間(明帝の時代)のように敦煌郡の営兵三百人を恢復させ、改めて護西域副校尉を敦煌に置き、同時に西域長史に五百人を率いさせ、楼蘭で屯田を開始するべきです。こうすれば西は焉耆、亀茲の要道を制御し、南は鄯善、于闐を牽制し、北は匈奴を防いで、東は敦媓を守ることができます。」
尚書が班勇に対して、護西域副校尉を置き楼蘭で屯田することの利害を説明させました。
班勇が利を説きました「永平(明帝の年号)の末、始めて西域と通じ中郎将(鄭衆)を敦煌に置き、後に副校尉(関寵)を車師に置きました。これは胡虜を統治するのと同時に、漢人が彼等を侵さないよう監視することが目的でした。そのおかげで外夷は漢に帰心し、匈奴は漢の威を恐れるようになりました。今、鄯善王・尤還は漢人の外孫(母親側の祖父母両方もしくはどちらかが漢人)です。匈奴がこのまま勢力を拡大したら、尤還は殺されるでしょう。逆に楼蘭で屯田を始めれば、彼等は安心して漢に仕えることができます。」
長楽衛尉・鐔顕、廷尉・綦毋参(綦毋が姓)、司隸校尉・崔拠が反対して言いました「朝廷が西域を放棄したのは、中国に益がないのに国費を消耗するからだ。今、車師は既に匈奴に属し、鄯善も信用できない。もしも鄯善が裏切っても、北虜が一緒になって辺境を侵すことはないと、班将軍は保証できるのか?」
班勇「中国が各州に牧を置くのは、郡県の盗賊を防ぐためですが、もしも全国の州牧が盜賊の発生を防げると保証するのなら、臣も腰斬(死刑)をかけて匈奴が辺境を侵さないことを保証しましょう。
我々が西域に入れば、北虜の勢は必ず弱くなります。北虜の勢いが弱くなれば、それだけ禍も小さくなります。しかしもしも西域との関係を断てば諸国は漢に対して絶望し、北虜に屈するでしょう。そうなったら辺境は北虜に侵され、河西の城門は昼でも閉じなければなりません。朝廷の德を拡めようとせず、わずかな出費を惜むのは、北虜を増長させるだけです。安寧をもたらす長久の策とは言えません。」
太尉属・毛軫が反対して言いました「もしも校尉を置いたら、西域諸国は際限なく使者を送り、様々な要求をしてくるはずだ。要求に応えるためには多くの出費を招き、断ったら人心を失うことになる。しかも、匈奴が西域を攻めたらその度に遠征しなければならない。我々にとって利益にはならないのではないか。」
班勇「もしも西域を匈奴に譲ったら、匈奴が大漢に感謝し、辺境を侵さなくなるのなら、そうすればいいでしょう。しかし実際には、西域の食糧や兵馬を得た匈奴はますます盛んに国境を侵すことになります。西域を手放したら、敵を富ませて暴虐を助長することになります。校尉を置くのは漢の威德を示して諸国の心をつなぎ、匈奴の野心を阻むためであり、国財の浪費を心配する必要はありません。西域の人も金銭財宝を欲しているわけではないので、必要になるのは西域の使者を応対するための食費程度です。もしも西域を放棄したら、諸国は北虜に帰属し、協力して并州や涼州を侵犯するようになるので、中国の出費は十億を越えるでしょう。」
最終的には班勇の意見が採用され、敦煌郡の営兵三百人を恢復し、西域副校尉を置くことになりました。
しかし西羌との対立が続いており兵力に余裕がないため、楼蘭の屯田は実現しませんでした。形式的には西域を保護したものの、実際には出兵できない、という状態です。
この後、匈奴は車師と共に頻繁に辺境を侵し、河西に大きな被害が出るようになりました。