詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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(Ⅱ-7)中国史・女性論 《§-2 政権を手中にした呂太后》2.)劉氏への迫害と呂氏の専横
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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中国史・女性論 Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性 目次 §-1 呂后と戚夫人との葛藤 1.)大風の歌と鴻鵠の歌 2.)高祖と戚夫人 3.)呂后のまきかえし 4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着 5.)威夫人の末路 §-2 政権を手中にした呂太后 1.)呂太后の専権 2.)劉氏への迫害と呂氏の専横 3.)無為の政治 §-3 項羽と劉邦の人物評価 1.)家柄・性格の相違 2.)阬殺と「法三章」 3.)漢中放棄と懐王の弑殺 4.)将に将たるの器 5.)劉氏政権の強化と保持 6.)死に望んで |
Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性
§-2 政権を手中にした呂太后
2.)劉氏への迫害と呂氏の専横
そのころ劉氏一族としては、斉王肥をはじめ六人の封建諸王のほか、高祖の兄・弟の子たちも、それぞれ王に封建されて強大な勢力を有していたが、かれらは劉氏一族であっても、呂太后にとってはみな血の通わない他人である。それゆえ孝恵帝が在位七年ののち病死すると、孝恵帝の太子は幼児であるうえに、血統上からも疑いが持たれていたものだから、呂太后としては頼りになるのは、血のつながる呂氏一族だけである。
このときの呂太后の孤独な胸中をよみとったのは、留侯張良の子の侍中張辟彊であった。
それについて 『史記』、「呂后本紀」 には、つぎのようにいう。
〔張辟彊〕は丞相(曹参)にいう、
「太后〔の男子〕はただ孝恵帝ひとりきりであった。いま帝が崩じたが、〔太后〕は心から悲しまれない。君はその解がわかりますか」と。
丞相日く、
「どんな解なのか。」
辟彊日く
「帝には壮の子がないため、太后は君がたを畏れられるのです。いま君が
〔太后ゆかり〕の呂台・呂産・呂禄を拝して将軍とし、南・北軍の兵をひきいさせ、また諸呂 (呂氏一族)をみな宮中に入れて事を用いさせるよう〔太后に〕請いなさい。さすれば太后の心も安んじ、君がたも禍を脱れることができましょう。」
そこで丞相は辟彊の計のとおりにした。太后は喜んで、はじめて突き哀しんだ。これから呂氏一族が権勢をほしいままにすることになった。
この『史記』の一文を通じても、孝恵帝の死によって、呂太后がいよいよ孤独感を深め、それに反比例して政権への執着心を強めたことがわかる。
かの女は、名分上では少帝(孝恵帝の太子)を即位させたものの、万機はことごとくその手中におさめ、あからさまに劉氏一統のうちで、めぼしい諸王に対しては、あらゆる迫害を加えはじめた。三趙王(如意・友・恢)はつぎつぎに殺され、また梁・趙・燕はほろぼされて、呂氏一族が代わって王や侯に封建されたので、勢いのおもむくところ、しだいに呂氏一族によって政権が壟断されることになった。