詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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(Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと)) 《§-3 班固と『漢書』》Ⅲ-§-3-2.『漢書』の編纂
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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中国史・女性論 Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと) §-1 女流文学者班昭 Ⅲ-§-1-1 才媛、班昭 Ⅲ-§-1-1『女誡』七章 §-2 班家の世系 Ⅲ-§-2-1班家の世系 Ⅲ-§-2-2班彪 §-3 班固と『漢書』 Ⅲ-§-3-1.班固とその兄妹の生き方 Ⅲ-§-3-2.『漢書』の編纂 Ⅲ-§-3-3.『漢書』と『史記』 Ⅲ-§-3-4.史記・漢書両書の社会的背景の相違 Ⅲ-§-3-5.晩年の班固 §-4 班固と西域経営 Ⅲ-§-4-1. 武人、班超の夢 Ⅲ-§-4-2. 漢と匈奴と西域諸国 Ⅲ-§-4-3. 班超と後漢の西域経営 Ⅲ-§-4-4. 班勇 |
中国史・古代女性論
Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと) |
§-3 班固と『漢書』 |
Ⅲ-§-3-2.『漢書』の編纂 |
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2.『漢書』の編纂
『後漢書』巻七、「班固伝」によると、明帝の詔命をうけて、他の学者とともに、披国が最初に摸したのは世祖本紀であり、ついで列伝載記二十八編であったというが、これらは国史(漢代史)であって、司馬遷の『史記』をつぐ意味で、珪彪が摸した『後伝』とは、体例を異にしたもののようである。というのは、さきにいったように、父彪の死後、班国が父の遺志をついで『後伝』の続修につとめていたころ、私かに国史を改作っていると謹告され、京兆の獄につながれて中断していたのを、明帝が再びその続修を命じたとき、班国は、司馬遷の 『史記』 が漢室を百王の末に列し、始皇帝や項羽らと同列においたことを非難し、ついに漢一朝の歴史書である『漢書』を独立撰修したのだ、という。
したがって『後漢書』巻三十、「班彪付伝」 の「班固伝」によるかぎりでは、修史に対する班国の方針は、父彪の『後伝』の続修に従事した投獄以前と、蘭台の校善部に入仕して、明帝の詔命をうけて、世祖本紀や列伝載記を摸した以後とでは、通史体から漠一朝の断代史体へ、と大きく変化していることがわかる。
こうして珪国は、永平六年以来約二十年余のあいだ、蘭台の一官に甘んじつつ、「禁中に入って連日継夜」ひたすらに『漢書』 の編述にしたがったのであった。そしてかれは、章帝の建初七(八二)年五十一歳のとき、ひとまず『漢書』の稿を了えることができた。しかし、それがまだ完結をみなかったことは、『史通』巻十二、「正史」の条に
書(班固の『漢書』の稿本) は頗る散乱していて、能く綜理されてない。(そのため)妹の班昭が博学で文章にも長じていたので、詔を奉じて校叙した。云云
というとおりである。趙翼の『二十二史劄記』(巻一)によれば、班固の 『漢書』未完の部分は、班昭・馬続のほか、後さらに慮植・馬日鬵禪・楊彪・蔡邕・韓説らが補足訂正したものという。
このように『漢書』は班固のほか、後の多くの学者の手をへたものの、しかし『漢書』撰述の大綱は、まったく班固の方寸に出たものといってよく、いまいったように、それは父の彪が『史記』につづく通史を企図したのとは異なり、姓回は漠の高祖から平帝までの前漢二百三十年間を、まとまった一個の歴史世界として『漢書』にまとめ上げたのであった。これこそ後世「断代史」(時代史)といわれる歴史書の一形式であって、以後の正史はみな『漢書』の断代方式を踏襲するようになった。かくて司馬遷の『史記』による紀伝体形式の通史法と班固の『漢書』による同じ形式の断代史法とは、中国における歴史書の二つのスタイルを確立したわけである。
章帝は文学を好み、班固は高く評価された。帝は経典の本文に関する白虎観での論争の経緯を班固に編纂させた。
その後、母の喪のために官を辞したが、永元元年(89年)に竇憲に従って匈奴と戦った。班固が竇憲の勝利を記念して書いた「封燕然山銘」(燕然山は現在のハンガイ山脈)が『文選』に載っている。2017年8月14日に中国で報じられたところによれば、中国の内モンゴル大学蒙古学研究センターとモンゴルのチンギス・ハーン大学が共同で同年7月27日から2週間かけて行った実地調査により、この石碑がハンガイ山脈に現存することが確認された[2]。
永元4年(92年)、竇憲が失脚すると、班固もまた竇憲一派とされてこの事件に連座して、獄死した。
『漢書』の未完の部分は妹の班昭が完成させた。
後漢の班固の著作。紀伝体のスタイルで前漢の歴史のみを扱う。
高祖から王莽の滅亡までを記述した前漢の正史で、後漢の班固が著した。班固が宮中の政争に巻き込まれて獄死したため、妹の班昭が完成させた。『史記』と同じ「紀伝体」のスタイルをとるが、『史記』が三皇五帝から漢までの「通史」であるのに対して、前漢王朝のみを扱う「断代史」である。このようは「紀伝体」による「断代史」は、後の中国の各王朝の正史のスタイルとして定着する。また、『漢書』地理志には、「夫(そ)れ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり献見すと云う」とあり、紀元前1世紀の日本に関する正確な記録となっている。