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中国文学 李白・杜甫・韓愈・李商隠と女性詩 研究

詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。

二-1、唐代女性論、后妃と宮人、宮中に入る 漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ8710

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二-1、唐代女性論、后妃と宮人、宮中に入る 漢文委員会kanbuniinkai 紀 頌之 ブログ8710

唐代女性論、后妃と宮人、宮中に入る  

はじめに

 果てのない長い夜、あばらやに住む貧しい女は、織機の前で夜もすがら披を動かし手を休めず働くが、宮府の税の催促に悲しみで腸がちぎれそうだ。後宮の美人は珊瑚の枕の上でたえず寝返りをっち、天子の寵愛の衰えたことに悲しみの涙を流す。同じ女でも身分、地位が異なり、彼女たちの生活、境遇、感情、心理もそれぞれ異なる。唐代の女性を理解しようとすれば、まず各階層の女性たちの生活状況をそれぞれ観察しなければならない。

 

 唐代三百年間の女性の人数を正確に測る方法はない。しかしある時期の人数はだいたい計算できる。記録によると、唐代の最大の人ロは天宝十三載(七五四年)の五二八八万四八八人であり、この数字で計算すれば、半分が女性と仮定した場合、女性が最も多かった時、二千六百余万人に達したことになる。

 二千数百万人の女性は、それぞれ異なった階層に属していた。披女たちはおよそ次の十種に分けることができる。一 后妃、二 宮人、三 公主(附郡主・県主)、四 貴族・宦門婦人、五 平民労働婦人、六 商家の婦人、七 妓優、八 姫妾・家妓、九 奴婢、十 女尼・女冠(女道古・女以上である。以下それぞれに分けて彼女たちの生活、心理状態などを述べたいと思う。叙述の都合により、后妃と宮人はまとめて一節に書くことにす二、唐代女性の各階層の状況

二-1 后妃と宮人

一たび深宮の裏に入れば、年年 春を見ず〃

唐の宮人

  

 杜甫はかつて「先帝の侍女八干人」《2099 觀公孫大娘弟子舞劍器行 并序》(公孫大娘が弟子の剣器を舞うを観る示」)と詠い、白居易もまた「後宮の佳麓三干人」(「長恨歌」)と言った。これらは決して詩人の誇張ではなく、唐代の宮廷女性は、実際はこの数字をはるかに越えていた。唐の太宗の時、李百薬は上奏して「無用の宮人は、ややもすれば数万に達する」(『仝唐文し巻一四二、李。白薬「宮人を放っを請うの封事」)といった。『新唐書』の「宦者伝」上に、「開元、天宝中、宮娘はおおよそ四万に至る」と記されている。後者は唐代の宮廷女性の人数に関する最高の具体的な数字であり、まさに盛唐の風流天子玄宗皇帝時代のものである。宋代の人洪邁は、この時期は漢代以来、帝王の妃妾の数が最も多かった時代であるといっている(『容斎五筆』巻三「開元宮噴」)。うまい具合に、この時期の女性の総人ロは先に紹介した数字おそ二千六百余万であるから、四万余人とすれば、じつに仝女性人口の六百分の一を占める。つまり、女性六百人ごとに、人が宮廷に入ったことになる。唐末になり、国土は荒れ、国勢は衰えたが、いぜんとして「六宮(後宮)の貴・賤の女性は一万人を減らない」(『資治通鑑』巻二七三、後唐の荘宗同光三年)という状態だった。この驚くべき数字の陰で、どのくらい多くの「啖夫怨女」(男やもめと未齢の老女)を造り出したことか計り知れない。唐末の詩人曹郡が慨嘆して「天子 美女を好み、夫婦 双を成さず」(「捕漁謡」)と詠ったのも怪しむに足りない。

 

 

一 宮中に入る

 

 このように多くの女性はどこから来たのか。またどのようにして宮廷に入ったのか。彼女たちは

だいたい次の四種類に分けられる。

 

 第一種は、礼をもって宮廷に迎え入れられた場合である。この種の人々の大部分は名門貴顕の出身である。たとえば高宗の王皇后、中宗の趙皇后、粛宗の張皇后等の場合、みな皇室の親戚であった。また唐朝の権力者の娘もいた。たとえば憲宗の郭貴妃は尚父郭子儀の孫娘であった。また名門大族の子孫もいた。たとえば太宗の楊妃は隋の場帝の娘であり、玄宗の柳捷好は当時の名族の娘であった。唐の皇室は各種の政治的原因と西晋、東晋以来の門閥観念によって、名族と姻戚関係をもちたいと望んでいたから、彼女たちは特別厚い礼をもって宮中に招かれた。ごく少数であるが、徳と才能と容姿によって宮中にその名を知られ、特別に厚い礼をもって招かれた女性もいた。彼女たちの出身は必ずしも貴顕ではなかったが、大多数は文武百官、あるいは士大夫階級の娘であった。たとえば、太宗の徐賢妃は才能、学識が衆に抜きんでていたので招かれて才人となったが、武則天はと言えば美貌によって招かれて後宮に入っている。こうした部類の女性たちは皇室の特別厚い礼によって招かれた人々であったから、大部分は後宮に入った後、高い位の妃嬢や女官に封じられ、身分はよりいっそう高かった。

  * 尚父は父のごとき人という意味の尊号。憲宗は郭子儀をそのように遇した。

 

 第二種は、選抜されて宮廷に入った場合である。この種の女性は必ずしも高貴な家柄の出ではなかったが、しかし大多数は「良家」の出身、つまり一般の官僚あるいは士人の家の出であった。唐朝の諸帝は、前後して何度となく民間の良家の娘を広く選抜して後宮に入れた。唐朝の初め、尚書省は次のように奏上している。「近頃、後宮の女官の選抜に身分の賤しい者どもが選ばれ、礼儀作法がないがしろにされております(侍女や歌姫・舞姫から抜擢された者を指す)。また刑罰や死刑にあった家の女もおりますが、これらは怨恨の積った者たちであります(罪に連坐して後宮に没収された者を指す)。そのため、今後、後宮や東宮(皇太子の宮殿)の女官に欠員が生じた場合は、みな良家の才智と徳行のある女性を当て、礼をもって招聘されますように。また罪人として宮廷に入れられた者や、もともと下賤の家の者はみな補充に当てないようお願いいたします」(『資治通鑑』巻一九五、太宗貞観ナ二年)と。唐の太宗はこの意見を入れ、すすんで「天子自ら良家の娘を選び、東宮の女官に当てた」ことがあった(『資治通鑑』巻一九七、太宗貞観十七年)。

 

 これ以後、唐の歴代の皇帝は、後宮や太子、諸王のために妃を選ぶ時にはぴじーっに家柄を重んじ、常に良家の中から広く娘を選び、「龍子龍孫」(皇帝の子や孫)が下賤の家の女から生れないようにした。玄京皇帝は、皇太子や諸王のために「百官の子女」、「九品官(一品官から九品官に至る官僚)の息女」を選んで宮中に入れた(『全唐文』巻三五、玄宗「皇太子諸王妃を選ぶ勅」、『新唐書』十一宗諸子伝)。文宗は皇太子の妃を選んだとき、百官に「十歳以上の嫡女(正妻の生んだ女子)、妹、姪、孫娘をすべて報告せよ」(『全唐文』巻七四、文宗「皇太子妃を選ぶ勅」)と命じた。荘恪太子(文宗のT、名は李永)のために妃を決める時には、もっぱら「汝州(河南省臨安。洛陽の東南)、鄭州(河南省鄭州)一帯の高貴な身分の家の子女を対象に新婦を求めた」(王浪『唐語林』巻四「蚕羨」)。十数歳に達した「良家の子女」は、この種の選抜をへて多数宮廷に入ったのであるが、彼女たちの中のほんの少しの者だけが幸運を得て妃娘に列し、大多数の者は名もなき宮女のままで生涯を終えたのである。このように良家の子女を選抜するのが、宮廷女性の主要な来源であり、宮廷女性の中で少なからざる比率を占めていた。陳鴻は『長恨歌伝』のなかで、玄宗の時代、宮中の「良家の子は、千を以て数える」といい、蔀調も『劉無双伝』の中で「後宮に選抜された宮娘の多くは衣冠(公卿大夫)の家の子女である」と書いている。

 

 しかしながら、良家の子女の才智徳行あるものを厳格に選択するというのは、主に皇太子、諸王の妃を決める時だけであった。事実、歴代の皇帝は宮女を選別するのに、決してこれほど厳格な規定を持ってはいなかった。皇帝たちは名門の令嬢でも、貧しい家の娘でも、はては娼妓、俳優などの賤しい女たちであろうとも、ただ容姿、技芸が衆に抜きんでていれば、一様に選んで宮廷に入れたのであった。玄宗は、かつて「花鳥使」なる役人を四方に派遣して密かに美人をさがさせたが、家柄や才能、徳行などは必ずしも問題にしなかったようである。その他、唐の宮中には教坊などの役所があり、皇族の耳目を楽しませる多数の宮妓を専門に養成していた。この教坊もしばしば民間で女性を選抜した。たとえば憲宗の時、教坊は「密旨だとして良家の子女、及び衣冠の族の別宅の妓人を取り上げた」(『旧唐書』李綺伝)。宮妓を選抜するにはただ容姿、技芸を見るだけであったから、良家の出か、才智徳行がどうかは問題にしなかった。

 

 古来、自分の青春と自由を、移り気で定かならぬ皇帝の寵愛ごときと取り換えようなどと思う女性はいくらもいなかったし、また自分の娘を世間から隔絶したそんな所に送ろうとする父母もほとんどいるわけはなかった。それで、ひとたび宮女を選抜するという話があれば、朝野、貴賤を問わず人々はみな恐怖におののいた。そのため、玄宗、文宗の両皇帝は宮女の選抜をやめざるを得なかった。元桐は民間の娘を選抜する状況を「上陽の白髪の人」なる詩で、次のように描写している。美女の選抜の任に当たる花鳥使たちは、「懐に墨詔を満たして嬢御を求め、……酔い醗にして直

ちに卿士の家に入れば、閑閔のひとは倫かに週避するを得ず。良人は妾を顧みて死別と心ぎめ、少女は爺を呼んで血もて涙を垂らす。十中一は更衣を得ること有るも、九は深宮に配されて宮婢と

作る」と。

 

 

 第三種は、宮中に献上された女性である。この種の人々には様々なタイプがあったが、大半は美貌か技芸の才によって献上された女性であった。いくらかの朝臣は自分の出世のために妻や娘を宮中に入れることを常に願った。たとえば、秘書官の鄭普思は、娘を中宗の後宮に献上したので弾劾を受けたことがあった(『資治通鑑』巻二〇八、中宗神龍二年)。崔混はさらに恥知らずにも美貌の妻と娘を一緒に皇太子の宮中に献上し、高官になることができた。そのため、「艶婦を春宮(皇太子の宮殿)に進めた」と世間から機られた(『太平広記』巻二四〇)。こうした例よりもさらに多かったのは、皇族、大臣や藩鎖(節度使)などが民間の美人を捜し出して猷上した事例である。順宗の時、昇平公主は女ロ(奴婢とされた女)十五人を献上した(『旧唐書』憲宗紀。ちなみに『新唐書』諸帝公主伝では「女伎を献ず」に作る)。敬宗の時、帝は特に「公主、郡主は決して女口を献上してはならないと命じた」(『旧唐書』敬宗紀)ことがある。「女口を進める」ことがすでに風習になっていたことが分かる。唐朝後期には藩鎭の大半が入朝の際にも女口を献上しようとし、于頔、韓弘は歌舞妓、女楽(楽器を奏でる妓女)を献上した。こうした女口たちの中には娼優(娼妓、俳優)や個人が所有する家妓・姫妾、それに若干の名もなき民家の娘も含まれていた。

 

 

 第四種は、罪人の家の女性で宮廷の婢にされたものである。これらの大多数は、官僚士大夫層の女性であった。唐律の規定では、「籍没」といって謀反および大逆罪を犯した官僚士大夫層の家族(母、娘、妻、妾、子孫を含む)と奴婢は、みな後宮に入れて官奴婢にすることになっていた。つまり「技芸に巧みな者は後宮に入れる」(『唐六典』巻六、刑部都官)と定めていた。そして、無能な者は司農寺(銭穀のことを司る官庁)等の官庁に配属して官奴婢とし、後宮に入れられた者の一部分は宮女とした。著名な宮廷の才女となった上官婉児は、祖父の罪に連坐し、まだおむつを着けている時、母とともに宮廷に没収された女性である。その他、たとえば太宗の時代の廬江王の姫妾、粛宗の時代の外国人将軍阿布思の妻、唐の後期の藩鎮呉元済と李鋳の妻、娘、婢妾等は、みな夫や父、あるいは主人が洙殺されたため後宮の婢にされた人々であった。また、その他の原因により、連坐して後宮に没収された者、たとえば裴珪の妾趙氏載』巻一)彼女は姦通罪を犯して後宮に没収された(『朝野倉のような女性もいたのである。玄宗は百官たちの側室のうちの「別宅婦」(正式な婚姻関係のない妾)を宮中に没収し懲戒の意を示したことがあった(『仝唐文』巻二I、玄宗「別宅婦人を畜うるを禁ずる制」)。罪に連坐して没収された女性は宮廷女性のなかでも決して少なくはなかった。彼女たちの身分は官婢であったが、後に様々な機縁によって幸運をつかんだ者もいた。たとえば玄宗は、連坐して宮中に没収された官僚士大夫層出身の女性五人を選んで皇太子に賜ったが、そのうちの一人は後に皇后になった。しかし全体的にいえば、この部類に属する人々の身分は最も下賤であり、彼女たちの心もまた深い悲しみと苦しみに満ちていたのである。

 

以上をまとめてみると、唐の宮廷女性は四種の主な方法、招聘、選抜、献上、連坐によって調達されていたことが分かる。彼女たちの中には、名門貴族、官僚士大夫層の娘のみならず、また少数ながら娼妓、俳優、婢妾など下賤な身分に属する者もいた。罪没される者は比較的特殊な例であったが、これ以外の女性たちはあるいは家柄、あるいは才智と徳行、あるいは容姿、あるいは技芸によって宮中に選抜された人々であり、以上の四つが彼女たちが宮廷に入る主要な道であった。そして彼女たちの大半は十三、四歳の少女であった。

 これら数干、数万の宮廷女性のなかで、幸運にも后妃となり皇帝の正式な妻、もしくは妾の地位をつかんだ者はほんの少数であった。まずそうした少数の幸運なる女性から見てゆこうと思う。

 

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プロフィール

HN:
漢文委員会 紀 頌之(きのあきゆき))
年齢:
78
性別:
男性
誕生日:
1946/09/10
職業:
文学者
趣味:
中国文学
自己紹介:
漢詩から唐・宋詩まで基本となる詩人・詩集を各全詩訳注解説してゆく、その中で、これまで他ブログに、掲載した女性の詩を、手を加えて、整理して掲載してゆく。
これまで日本では紹介されていないもの、誤訳の多かった詩などを、時代の背景、出自、その他関連するものなどから正しい解釈を進めてゆく。
毎日、20000文字掲載しているので、また、大病後で、ブログコミュニケーションが直ちに取ることができないけれど、精一杯努力してお返事いたします。

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