詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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2017年5月16日 |
の紀頌之6つの校注Blog |
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Ⅰ李白集校注 |
745-019-#2巻174-07 留別王司馬嵩(卷十五(一)九○九)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8717 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-84 先生-巻八-01城南聯句 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8718 |
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Ⅲ 杜詩詳注 |
767年-109#2 贈蘇四徯#2 杜詩詳注(卷一八(四)一五九八 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8731 |
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Ⅳブログ詩集漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (192)回目牛嶠二十六首《巻四21菩薩蠻七首其七》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8720 (05/16) |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 ・玉臺新詠 |
玉-巻二14 樂府三首其三 浮萍篇 -#3曹植 Ⅴ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の玉臺新詠巻二ブログ 8709 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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二-2 后 妃 (優雅と残酷な生存競争)
彼女たちは皇帝の妻妾であり、錦衣を着て山海の珍味を食し、ひとたび呼ばわれば百人の下婢が答える、最も高貴にして最も権勢の高い人々であった。しかし、その運命は逆にまた最も不安定であり、いつでも天国から地獄に堕ち、甚だしい場合には「女禍」の罪名を負わされ犠牲の羊にされた。
* 女禍とは君主が女色に迷い、国事を誤ったため引き起された禍い。
1 内職、冊封
古来、宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬢、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618年 - 626年)に、唐は隋の制度を参照して完璧で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬢(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。
また、皇太子の東宮にも「内官」があり、太子妃一人、その下に良俤、良媛、承徽、昭訓、奉儀などの品級があった。諸親王の王妃の下にも儒人等の腰妾の身分があった。
唐代三百年間に封ぜられた后妃のうち、皇后と地位が比較的高いか、あるいは男子を生んだ妃蹟だけが史書にいささかの痰跡を残した。その他の女性は消え去って名も知れない。『新・旧唐書』
「后妃伝」には、全部で二十六人の皇后、十人の妃娘が記載されている。その他で史書に名を留めているものはおよそ五、六十人である。その内、高祖、玄宗両時代の人が最も多い。高祖には賓皇后の他に、万貴妃、尹徳妃、宇文昭儀、莫嬢、孫嬢、崔嬢、楊嬢、小楊娘、張捷好、郭捷好、劉捷好、楊美人、張美人、王才人、魯才人、張宝林、柳宝林などがいた。玄宗には王皇后、楊皇后、武恵妃、楊貴妃、趙麓妃、劉華妃、銭妃、皇甫徳儀、郭順儀、武賢儀、董芳儀、高捷好、柳捷好、鍾美人、盧美人、王美人、杜美人、劉才人、陳才人、鄭才人、閣才人、常才人などがいた。もちろん史書に名を残せなかった人はさらに多い。史書の記載から見ると、高祖、玄宗両時代の妃嬢がたしかに最も多かったようである。
唐代の皇帝たちは、後宮の女性を選抜したり寵愛したりするのに、あまり尊卑貴賤を気にかけなかったが、彼女たちに地位・晶級を賜る時には家柄をたいへん重視した。とりわけ皇后に立てる時
には絶対に家柄が高貴でなければならず、「天下の名族を厳選」しなければならなかった(『資治通鑑』巻一九九、高宗永徽六年)。漢代に歌妓の衛子夫(武帝の皇后。もと武帝の姉の歌妓)や舞妓の趙飛燕(成帝
の皇后。もと身なし児で歌妓)が皇后になったようなことは、唐代には完仝に跡を絶った。后妃に封ずる時は、まず「地冑清華」(家柄の高貴)、「軒尼之族」(貴顕なる名族)等々の出身であることが強調され、その次にやっと徳行が問われた。
唐代の記録にある二十六人の皇后の内、死後追贈された人、あるいは息子の即位によって尊ばれて太后に封ぜられた人、こうした若干の例外を除く他の大多数の皇后は、その時代の高官か名門の家柄の出であり、そのうちのハ人はやはり皇族の出身であった。時に皇帝が家柄などにそう拘泥しないこともあったが、しかし大臣たちが家柄を最も有力な理由にして反対したので、皇帝でさえどうすることもできなかった。武則天の父は若い頃商人であったが、娃国後に高い地位に上り、格の低い名もなき家柄とはいえなかったけれども、武則天を皇后に立てることに反対した大臣たちはやはり、彼女の「門地は、実に微賤である」と攻撃した(『資治通鑑』巻二〇三、則天后光宅元年)。一方、高宗が努めて衆議を排して披女を皇后にしようと議した時にも、また懸命になって「家門は勲庸(勲功)著しい」とか、「地位は綴敵(冠帯と印綬)ともに華である」(『資治通鑑』巻二〇〇、永徽六年)などと強調した。武宗の王賢妃はたいへんな寵愛を受け、また武宗が即位する際に大きな功績もあったので、武宗は彼女を皇后にしようとした。しかし、大臣たちは「子が無く、また家柄も高貴ではない。恐らく天下の議を胎すことになろう」といって反対したので、ついに出身が下賤ということで皇后にできなかった。皇帝でさえ名門の女性を皇后に立てるという原則に逆らえなかったことが分かる。
名門出身という、この資本がなかったならば、たとえ皇帝の寵愛をほしいままにしたり、皇子を早く生んだとしても、ただ死後に称号を追贈されるか、子が即位して始めて正式に太后になることが許されたのである。唐代の皇后の内、四、五人は低い家柄の出身であった。たとえば、粛宗の呉后は、罪人の家族として宮中の下婢にされた人であり、憲宗の鄭后、穆宗の蕭后はともに侍女の出であり、両者とも生んだ子が即位して始めて尊ばれて太后になることができた。
皇后を立てることに比べて、妃嬢を立てることはわりあい簡単であり、家柄はそれほど厳格に間題にされることはなかった。彼女たちの大半は皇子を生むか、あるいは寵愛を受けたために妃娘の晶階を賜った者であったから、その中には身分の低い者もいくらか含まれていた。たとえば、玄宗の趙麓妃は歌妓の出身であった。そうした例もあるが、しかし妃娘でも出身、家柄はやはり大切であった。太宗の楊妃は隋の場帝の娘であったから、「地位と名望が高く、内外の人々が皆注目した」(『新唐書』太宗諸子伝)。玄宗の柳捷好は名門大族の娘であり、玄宗は「その名家を重んじて」(『新唐書』十一宗諸子伝)特別な礼遇を与えた。
美人が雲のごとく集まっている後宮において、家柄は一頭地を抜くために必要な第一の跳躍台であった。
2 高貴、優雅な生活
后妃たちの生活は富貴であり、また贅沢でもあった。彼女たちは衣食の心配の必要はなく、内庫(宮中の資材課)が必要なもの一切を支給した。「唐の法は北周、隋の法を踏襲し、妃娘、女官には地位に尊卑があったから、その晶階によって衣服、化粧の費用を支給した」(『旧唐書』王鋲伝)。唐初以来、国庫が日に日に豊かになると、后妃たちの生活もそれに応じて贅沢になった。玄宗の代になると宮中の生活が贅沢になりすぎたので、皇帝は宮中にあった珠玉宝石、錦誘を焼き捨て、また宮中の衣服を専門に供する織錦坊を閉鎖したことがあった。しかし、いくばくもなく開元の盛世が到来すると、玄宗も初志を全く翻したので、宮中生活はまた華美に復した。玄宗は寵愛した妃娘に大登の褒美を与えた。王鋲は、毎年百億にものぼる銭、宝貨を皇室に寄進し、専ら玄宗が妃嬉に賜る恩賞の費用とした。そして「三千の寵愛、一身に在り」と称された楊貴妃は、さらに一層贅沢の限りを尽したので、宮中にいた七百人の織物職人が専門に彼女のために刺繍をし、また他に数百人の工芸職人が彼女の調度品を専門に制作していた。また、楊貴妃は荔枝が好きだったので、玄宗は万金を費やすのを惜しまず、昼夜駅伝の馬を走らせ、葛枝を蜀(四川)より長安に運ばせた。詩人杜牧はそれを風刺し、「一騎 紅塵 妃子笑う、人の是れ荊枝来るを知る無し」(「華清宮に過る絶句」)と詠じた。
后妃たちの生活は優閑かつ安逸なもので、終日飽食し何もしないで遊びくらした。もちろん、時には彼女たちも形ばかりの仕事をしなければならなかった。たとえば恒例となっている皇后の養蚕の儀式や六宮(皇后の宮殿)での繭を献ずる儀式を主催し参加することーこれは天下の婦女に率先して養蚕事業の範を示すことを意味していた。玄宗の時代、帝は彼女たちに自ら養蚕をするよう命じ「女が専門にすべき仕事を知らしめようとした」ことがあった(『資治通鑑』巻二言一、玄宗開元十五年)。しかし、この仕事も当然ながら身分の賤しい宮女たちに押し付けられたはずであり、本当に彼女たちを働かせることにはならなかったに相違ない。この他にも、また祭祀、帝陵参拝、宴会等の儀式にも参加しなければならなかった。『唐六典』の内官制度の規定によると、后妃たちにも職務が決められていた。妃嬢は皇后を補佐し、「坐して婦礼を論じ」、「内廷に在って万事を統御する」、六儀(後宮にある六つの官庁)は「九御(天子に奉侍する女官たち)に四徳(婦徳・婦言・婦容・婦功)を教え、傘下の婦人を率いて皇后の儀礼を讃え導く」、美人は「女官を率いて祭礼接客の事を修める」、才人は「宴会、寝所の世話を司り、糸棄のことを理め、その年の収穫を帝に献じる」等々。しかしながら、これらの仕事も大半は形式的なもので、なんら実際の労働ではなかった。形式的な「公職」以外で、彼女たちの生活の最も重要なことは、言うまでもなく皇帝の側に侍り、外出の御供をすることであった。彼女たち自身の私的な生活はと言えば、ただいろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまぎらわすかということに尽きる。「内庭の嬢妃は毎年春になると、宮中に三人、五人と集まり、戯れに金銭を投げ表裏を当てて遊んだ。これは孤独と苦悶の憂さを晴らすためであった」、「毎年秋になると、宮中の妃妾たちは、美しい金製の小聶に妨姉を捉えて閉じ込め、夜枕辺に置いて、その鳴き声を聴いた」(王仁裕『開元天宝遺事』巻古。これらが彼女たちの優閑無聊の生活と娯楽や気晴らしのち。っとした描写である。
3 不幸な運命、感情の飢渇
富貴、栄達、優閑、快適-彼女たちは、こうした人の世のすべての栄耀栄華を味わい尽したのであるから、唐代に生きた多くの女性たちの中では幸運な人々といわざるをえない。しかしながら、彼女たちにもまた彼女たちなりの不幸があった。彼女たちの運命は極めて不安定であり、一般の民間の女性に比べると、より自分の運命を自分で決める力がなかった。なぜなら、彼女たちの運命はきわめて政治情勢の衝撃を受けやすかったからであり、またその運命は最高権カ者の一時の寵愛にすべてに係っていたからである。
『新・旧唐書』の「后妃伝」に記載されている三十六人の后妃のうち、意外なことに十五人は非命の最期をとげている。二人は後宮で皇帝の寵愛を争って死に、二人は勣乱のなかで行方不明となり、一人は皇帝の死に殉じて自殺し、一人は皇太后として皇帝から罪を問われて死んだ。その他の九人はすべて政治闘争、宮廷政変で死に、そのうちの三人は朝廷の政治に関与して政敵に殺され、残りの六人は罪もないのに政争の犠牲となった。
后妃たちにとって、最も恐ろしいことはまず第一に政治権力をめぐる闘争であった。彼女たちはしばしば仝く理由もなく政治事件の被害に遭ったり、家族の罪に連坐させられたり、甚だしい場合には殺害されるという災難にあった。ここで人々はまず楊貴妃のことを最初に想い浮かべることであろう。複雑な政治闘争、権力闘争の角逐の中で、いまだ政治に関与したことのなかったこの女性は、玄宗皇帝が披女に夢中になり、また彼女の家族を特別に厚遇したということだけで、君主を迷わし国を誤らせ禍をもたらした罪魁となり、最後には無残にも柿め殺されたうえ、千古に残る悪名を背負わされ、正真正銘の生け賛の小羊となった。
唐代に、このような悲劇が決して他になかったわけではない。中宗の趙皇后(死後に皇后の称号を追贈)は王妃となった時、母親の常楽長公主と武則天の間に抗争が起ったため、内侍省(宮中に在る宦官管理の一役所)に拘禁された。毎日窓から生のままの食事を少し与えられただけで、世話する人もいなかった。数日後、衛士が中で死んでいるのを発見したとき、死体はすでに腐乱していた。春宗の賓后と劉后は人から無実の罪に陥れられ、武則天の命で、同じ日に秘密裏に殺され、死体は行方知れずになった。粛宗が皇太子だった時、章妃は長兄が罪により死を賜ったため粛宗と離婚を余儀なくされた。以後彼女は宮中で尼僧となって終生灯明古仏を伴としてくらした。唐末、昭宗の何皇后の最後はさらに悲惨で、昭宗が朱仝忠に殺された後、罪を栓造されて締め殺され、王朝交替の犠牲者となった。
彼女たちの第二の脅威は、皇帝の寵愛を失うことに外ならない。大多数の后妃と皇帝との結婚は、事実上政略結婚であり、もともと皇帝の愛情を得たのではなかった。何人かの后妃は容姿と技芸の才能によって、あるいは皇帝と穀難を共にしたことによっ≒寵愛を受けた。しかし、いったん時が移り状況が変化したり、また年をとってくると、容色が衰えて寵愛が薄れるという例えどおり、佳人、麓人が無数にいる宮廷で自分の地位を保持することはきわめて難しかった。王皇后と玄宗は敷難を共にした夫婦であり、彼女は玄宗が行った章后打倒の政変に参与した。しかし武恵妃が寵愛を一身に集めた後には、しだいに冷遇されるようになった。彼女は皇帝に泣いて訴え、昔敷難を共にした時の情愛を想い出してほしいと願った。玄宗は一時はそれに感動したが、結局やはり彼女を廃して庶民の身分に落してしまった。境遇がち太っとマシな者だと、后妃の名が残される場合もあったが、それ以後愛情は失われ、後半生を孤独と寂寞の中に耐え忍ばねばならなかった。また、彼女たちの運命は、ぴどい場合は完全に皇帝の一時的な喜怒哀楽によって決められた。武宗はかつて一人の妃娘に非常に腹を立てたことがあった。その場に学士の柳公権がいたので、皇帝は彼に「もし学士が詩を一篇作ってくれるなら、彼女を許してやろう」といった。柳公権が絶句を一首つくると、武宗はたいそう喜び、彼女はこの災錐を逃れることができた(王定保『唐植言』巻一三)。しかし、皇帝から廃されたり、冷遇されただけの者は、まだ不幸中の幸いであったように思う。最悪の場合は生命の危険さえあった。高宗の王皇后と蕭淑妃の二人は、武則天と寵愛を争って一敗地に塗れた。この二人の敗北者は新皇后の階下の囚人となり、それぞれ二百回も杖で打たれてから乎足を切断され、酒瓶の中に閉じ込められた後、無惨に殺された。
后妃にとって、最後の脅威は皇帝の死去である。これは皇帝の付属品である后妃たちが、いっさいの地位と栄誉の拠り所を失うことを意味した。一つだけ例外がある。つまり子が皇帝に即位した場合で、「やんごとなき夫の妻」から、「やんごとなき子の母」へと転じることができた。少なくとも子のある妃娘はち太っとした地位を保つことができたが、子のない妃嬉たちは武則天のように仏寺に送られて尼にされるか、あるいは寂しく落ちぶれて後宮の中で生涯を終えた。たとえ太后という至尊の地位に登っても、新皇帝の顔色を窺わねばならなかった。憲宗の郭皇后は郭子儀の孫娘にあたり、公主を母に持ち、また穆宗の母となり、敬宗、文宗、武宗の三皇帝の祖母にあたる女性であったから、人々は唐朝の后妃のなかで「最も高貴」な方と呼んだ。しかし、宣宗が即位(八四七年)すると、生母の鄭太后はもともと郭太后の侍女であり、かねてから怨みをもっていたため、郭
太后を礼遇しなかった。それで郭太后は僻々として楽しまず、楼に登って自殺しようとした。宜宗はそれを聞くと非常に怒った。郭太后はその夜急に死んでしまったが、死因はいうまでもなく明らかであろう。
唐代の后妃のなかには、そのほか皇帝に殉死したという特別な例がある。それは武宗の王賢妃である。彼女はもとは才人の身分であり、歌舞をよくし、皇帝からたいへんな寵愛を受けた。武宗は危篤間近になると、彼女に「朕が死んだらお前はどうするのか」と問うた。すると彼女は「陛下に御供して九泉にまいりたいと思います」と答えた。すると武宗は布を彼女に与えたので、王才人は帳の下で首をくくって死んだ(『資治通鑑』巻二四八、武宗会昌六年)。次の宣宗が即位すると、彼女に「賢妃」を追贈し、その貞節を誉め讃えた。このようにして、一個の生きた肉体が「賢妃」という虚名と取り換えられたのである。
もし、予測のつかない未来と苦難の多い運命によって生みだされる不安な感情が、后妃たちの生活の普通の心理であったとするなら、もう一つ彼女たちにまとわりついているのは、心の慰めや家庭の暖かさが欠けていることによって深く感ずる孤独、寂寥、哀怨の気持であった。次のようにも言うことができよう。彼女たちは物質的には豊かであったが、人間の情愛の面では貧しかったと。寵愛を失った者は言うまでもないが、寵愛を受けている者でさえも、何万にものぼる女性が一人の男性に侍っている宮中においては、誰も皇帝の愛情をいつまでも一身に繋ぎとめておくことは不可能であり、また正常な夫婦生活と家族団秦の楽しみを味わうことも不可能であった。皇帝が訪れることもなくなって、零落してしまった后妃の場合、おのずから悲痛はさらに倍加した。
玄宗の時代、妃娘がはなはだ多かったので、「妃嬢たちに美しい花を挿すよう競わせ、帝は自ら白蝶を捕えて放ち、蝶のとまった妃娘のところに赴いた」。また、妃娘たちは常に「銭を投げて帝の寝所に誰が侍るのかを賭けた」(『開元天宝遺事』巻上、下)。彼女たちの苦痛を想像することができる。「長門(妃娘の住む宮殿)閉ざし定まりて生を求めず、頭花を焼却し筝を卸却す。玉窓に病臥す 秋雨の下、遥かに聞く別院にて人を喚ぶ声」(王娃「長門」)、「早に雨露の翻って相い誤るを知らば、只ら刑の奴を挿して匹夫に嫁したるに」(劉得仁「長門怨」)、「珊瑚の枕上に千行の涙、是れ君を思うにあらず 是れ君を恨むなり」(李紳「長門怨」)等々と詩人に描写されている。唐代の人は「宮怨」「捷好怨」「長門怨」「昭陽怨」などの類の詩詞を大量に作っており、その大半は詩人が后妃になぞらえて作ったものであるが、じつに的確に后妃たちの苦悶と幽怨の気持とを表している。これらの作晶を貴婦人たちの有りもしない苦しみの表現と見なすべきではない。これらには披女たちの、宮中での不自然な夫婦生活に対する怨み、民間の普通の夫婦に対する憧れがよく表現されている。女性として彼女たちが抱く怨恨と憧憬は、自然の情に合い理にかなっている。
4 残酷な生存競争
日常的に危険と不安が潜伏している後宮のなかで、気の弱い者、能力のない者は、ただ唯々諾々と運命に翻弄されるしかなかった。しかし、ち太っと勇敢な者は、他人から運命を左右されることに甘んぜず、自分の力をもって自分の運命を支配し変革しようとし、さらに進んでは他人をも支配しようとした。これは高い身分にいることから激発される権力欲ばかりではなかった。彼女たちの特殊な生活環境もまた、彼女たちを一場の激しい「生存競争」の只中に投げ入れずにはおかなかったのである。武則天、中宗の章后、粛宗の張后などは、后妃が政治に関与した例であり、彼女たちの政治活動とその成功失敗については、「女性と政治」(第三章第三節)で詳しく述べることにする。 皇帝の寵愛を失う恐怖があるからこそ、人は様々な乎段を講じて寵愛をつなぎとめたり、寵愛を奪いとろうとした。後宮における寵愛をめぐる最も残酷な一場の闘争は、武則天、王皇后、蕭淑妃の間で行われた。王皇后は皇帝の寵愛もなく、また子もなかったので、寵愛を一身に受ける蕭淑妃を嫉妬して張り合った。彼女は高宗がかつて武則天と情を通じていたことを知ると、策略をめぐらし、感業寺の尼になっていた武則天に蓄髪させて再び宮中に入れ、蕭淑妃の寵愛を奪わせようとした。宮中に入ったはじめのうちは武則天もへりくだって恭しくしていたが、いったん帝の寵愛を得ると、この二人の競争相手に対抗し始めた。王皇后を廃するために武則天は自分の生んだ女の子を柿め殺し、その罪を皇后にかぶせることもいとわなかった。最終的に武則天はさまざまな計略と手段をもって徹底的に競争相手を打ち破って皇后になり、王、蕭の二人は悲惨な末路をたどった。蕭淑妃は処刑される時、武則天を激しく呪い、「願わくば来世は猫に生れ、武氏を鼠にして、世々代々その喉笛にくらいつき仇を討ちたい」といった。後宮の競争の激しさは人を慄然とさせる。こうした競争は王后、蕭妃が起したものではないし、また武則天だけを咎めることもできない。それはじつに後宮のなかで極限にまで発展した、一夫多妻制度がもたらした産物であった。政治と権力が彼女たちの争いを発酵させ針らませたのであり、その激烈さは普通の家庭の妻と妾の争いを遥かに越えるものとなった。
皇帝がひとたび崩御すると、后妃たちの財産、生命、地位はたちまち何の保障もなくなるので、早くから考えをめぐらせた人たちもいた。男千を生んだ后妃は、いうまでもなくあらゆる于段を講じてわが子を皇太子にし、その貴い子の母たる地位を手に入れようとした。こうして跡継ぎを決めることも、后妃たちの激しい競争となった。玄宗はすでに趙麗妃の生んだ子を皇太子にしていたが、武恵妃が玄宗の寵愛を受けるようになると、現皇太子の位を奪って我が子寿王を皇太子に立てようと両策した。まず彼女は皇太子を廃するため罠をしかけて、ズ名中に賊が出た〃と言って皇太子と二人の王子に鎧を着て来させ、その後で玄宗に三人が謀反を起したと告げた。それで、太子と二人の王予は処刑された。男子のない后妃、あっても皇太子になる望みのない后妃は別に出路を求め、皇太子かその他の皇子たちにとりいって自己の安全を図ったのである。高祖李淵が晩年に寵愛した尹徳妃、張姥好などは子がなかったり、あっても幼かったので、すでに勢力をもっている他の何人かの皇子と争うことはたいへん難しかった。そこで彼女たちは皇太子の李建成と互いに結びあい、利用しあって娃成の即位を助け、高祖の死後のわれとわが子の不測の運命にそなえたのである。
后妃たちは表面的には高貴で優閑な生活を送っていたが、裏では緊張に満ちた活動をしており、それは彼女たちの別の生活の大きな部分をなしていた。こうした様々な手段は決して公明正大なものとはいえない。しかし、政治の変動と後宮の生活が彼女たちにもたらす残酷無情な状況を見るならば、そしてまた天下の母の鏡と尊ばれながら、じつは常に他人に運命を翻弄され、吉凶も保障し難い境遇にあったことを考えるならば、彼女たちが自分の運命を変えようと少しあがいたからといって、どうして厳しく責めることができよう。