詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと) 《§-4 班固と西域経営》Ⅲ-§-4-2. 漢と匈奴と西域諸国
2018年5月4日 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと) 《§-4 班固と西域経営》Ⅲ-§-4-2. 漢と匈奴と西域諸国 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10532 |
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Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと) 《§-4 班固と西域経営》Ⅲ-§-4-2. 漢と匈奴と西域諸国 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10532
中国史・女性論 Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと) §-1 女流文学者班昭 Ⅲ-§-1-1 才媛、班昭 Ⅲ-§-1-1『女誡』七章 §-2 班家の世系 Ⅲ-§-2-1班家の世系 Ⅲ-§-2-2班彪 §-3 班固と『漢書』 Ⅲ-§-3-1.班固とその兄妹の生き方 Ⅲ-§-3-2.『漢書』の編纂 Ⅲ-§-3-3.『漢書』と『史記』 Ⅲ-§-3-4.史記・漢書両書の社会的背景の相違 Ⅲ-§-3-5.晩年の班固 §-4 班固と西域経営 Ⅲ-§-4-1. 武人、班超の夢 Ⅲ-§-4-2. 漢と匈奴と西域諸国 Ⅲ-§-4-3. 班超と後漢の西域経営 Ⅲ-§-4-4. 班勇 |
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Ⅲ 女性文学者班昭とその家系(班家の人びと) |
§-4 班超と西域経営 |
§-4-2 漢と匈奴と西域諸国 |
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§-4-2 漢と匈奴と西域諸国
そもそも匈奴と西域のオアシス諸国との宗属関係は、後漢帝国のそれよりも、古くかつ密接であった。『史記』によれば、前漢の孝文帝四(前一七六)年ごろ、匈奴はすでに河西地方にいた月氏族を撃滅して、楼蘭(のちの鄯善)・烏孫・呼掲など西域二(三?)十六回を服属している。また 『漢書』西域伝には、その後匈奴は焉耆付近に憧撲都尉という官をおいて西城諸国を支配し、これに賦税したといえば、前漢の孝武帝が即位した前一四〇年ごろまでは、西域諸国のほとんどは、匈奴の支配下にあったわけである。
ところが孝武帝(武帝)が立つと、有名な張騫の二度にわたる中央アジア派遣とか、将軍の衛青や霍去病らの数回にわたる匈奴遠征によって、しだいにオルドスや甘粛西部の河西地方から、匈奴勢力を一掃して、玉門関までの間に河西四郡を設置し、さらに西域の楼蘭国・姑師国を征服して(前一〇八)、西域への交通路・貿易路が開かれるようになったことは、のちに述べるとおりである。
とはいっても、西域のオアシス諸国に対する匈奴の勢力は、そう簡単には消え去るものではなかった。西域は匈奴にとっては、その遊牧国家を維持してゆく上の生命線であった。かれらは西域諸国を支配下におさめて東西交通路(シルクロ-ド)を掌握し、このルートを利用して、かれらが漢帝国から収奪したり、また歳幣として贈られる生糸や絹織物や、あるいは西域諸国の玉などの貴石類をもって、西方世界のローマやベルシアなどと交易し、その利潤を有力な国家財源としていたからである。
そのほか、このシルクロ-ドを利用する隊商から収奪する通関税も、少なからざる利得であった。東西貿易に従事する隊商たちと匈奴とは、前者は後者によって交通上の安全を保証され、後者は、その代償として前者から通関税をとって、経済的利得をえるという共生的関係にあったわけである。
漢の勢力が西域に対して、ほんとうに定着したのは、貳師将軍【じししょうぐん】李広利の二回にわたる大宛(フェルガナ)征伐(前一〇四―前一〇二)からで、その後一時振るわなくなったが、さらに宣帝の神爵三(前五九)年に、クチャの東方烏塁城(チャディール)に西域都護がおかれると、匈奴の勢力は締め出されて、ここに前漢の西域経営はひとまず成功することになった。