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中国文学 李白・杜甫・韓愈・李商隠と女性詩 研究

詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。

Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》2. 唐と吐蕃の関係 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10735

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Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》2. 唐と吐蕃の関係 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10735

Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》2. 唐と吐蕃の関係

 

 

Ⅳ 政略婚 《§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主》2. 唐と吐蕃の関係 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10735

 

 

 

中国史・女性論

 

 

Ⅳ 政略婚 (近隣国・異民族に嫁いだ公主)

 

-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主

はじめに(唐とティペット王国との関係を背景)

1. 吐蕃王国と吐谷渾

2. 唐と吐蕃の関係

3. 文成公主の降嫁

 

§-4 蔡文姫史話

1. 胡騎に劫め去られた蔡文姫

2. 蔡文姫について

3. 後漢末の政治の乱れ

4. 黄巾の乱と軍閥の混戦

5. 悲憤の詩

6. 南匈奴部と後漢帝国との関係

7. 南匈奴部の反乱と分裂

8. 帰都の実現

9. 母子別離の情

 

 

 

-§-3 吐蕃王に嫁いだ文成公主

 

2. 唐と吐蕃の関係

 

国際関係とはいっても、これまで唐と吐蕃両者の間には、直接の交渉関係はなかったが、『旧唐書』の「吐蕃伝」(上)には、

貞観八(634)年、吐蕃王の棄宗弄讃は使節を送って朝貢してきたので、唐の太宗は折り返し馮徳遐を使者として遣わし、撫慰させたところ、ソンツェン=ガムポは大いに悦こんで、徳遐に随って答礼使節を入朝させ、多くの金、宝を奉献して、公主を降嫁されんことをも請うてきた。

という。しかし、このとき太宗はまだ公主の降嫁を許さず、かえって吐谷揮王には、貞観十、十一年ごろ公主の降嫁を約束したのであった。これを知ったソンツェン=ガムポは、面子をこわされたことを怒って吐谷渾を攻撃したので、吐谷渾王は敗れて青海の北に逃亡し、その部民や畜牧は、全部吐蕃に掠奪されてしまった。

 

吐蕃軍はさらに兵を進めて、吐谷渾の勢力下の党項や自蘭な乃どの羌族系諸部族をしたがえ、さらに二十余万の兵をもって、唐の都督の駐屯する松州の西境に迫った。こうしておいて、ソンツェンは再び使節を送り、金・帛を献じて公主の降嫁を迫り、貞観十二年秋には、ついに松州城を攻撃し、都督韓威の先鋒軍を敗ったため、その統制下にあった党項、自蘭などの諸羌族は、挙げて吐蕃に服属してしまった。

ちなみに、これら羌族の多くは、そのころ唐の国都長安(いまの西安)から吐蕃の都ラサへの公道 ―鄯州(青海省楽都縣)西寧から青海湖の東南辺に沿うて、さらに西南に進み、河源地帯の格尓木を経由してラサに至るいまの青蔵公路が、唐代の史書には「入吐蕃道」としてあげられている― に沿うて遊牧していたが、これらの部族の民族系統、その他西寧・格尓木経由の青蔵公路については、佐藤長「唐代の青海・ティペットの民族状況」 (『鷹陵史学』一〇号所収) および同氏の『古代 チベット史研究』付図第一図を参照されたい。

さて、吐蕃軍のはげしい攻撃によって、一時敗色の濃かった松州城の唐軍も、救援の征討将軍牛進達や侯君集らの尽力によって、ようやく危機を脱し、やがて吐蕃軍も内部の不和から、侵攻軍を引き揚げざるをえなくなり、ソンツェンは更めて唐朝に謝罪俊を送り、三たび熱心に婚姻を求めたので、太宗もようやく公主降嫁の内諾を与えることになった。喜んだソンツェンは、大論(大臣) のガルトンツェンを使節として、黄金五千両をはじめ、宝物・玩物数百件を結納として献じた。

 

吐蕃国概略

吐蕃は、7世紀初めから9世紀中ごろにかけてチベットにあった統一王国。

名の由来は「偉大なチベット」という意味である。

・唐が吐蕃と呼んで以来、17世紀中ごろまでチベットの総称として使用され続けた。

・日本では一般的に中国名の「吐蕃」を王朝名とした他、吐蕃王国、吐蕃帝国などの呼称が用いられており、呼称は定まっていない。

 

概要

7世紀初めのソンツェン・ガンポによる統一以後、唐とは東部では吐谷渾の帰属、南東部では南詔、北方では西域の東西通商路の支配権を巡って度々戦った。唐王室より公主(皇族の女性)を迎え和平を結ぶこともあったが、唐とはたびたび和平と抗争を繰り返した。安史の乱以降は唐に対して軍事的優位を保ち、河西、隴右地区とシルクロードの大部分を支配するに至った[1]9世紀になるとティソン・デツェン王が仏教を国教とする方針をたて(791年、サムイェー寺の宗論)、やがて仏教指導者が国政を行うようになり、大蔵経の訳出などが実施された。822年には唐との間で、対等、平等の形式で国境画定と和平を定めた条約を締結した。その後ほどなく、国内で仏教をめぐって対立が起こり、また王位継承問題から南北に分裂、やがて滅亡した。

仏教書には釈迦一族の末裔を王室の起源とする神話が描かれている。中国の旧唐書では中国の遼東地方より移住した鮮卑拓跋部出身の王家を吐蕃王室の起源とする、より遅い年代の史書ではチベットの波窩地方出身とされる事が多いが信憑性は薄い。吐蕃時代の金石文では、ほぼ例外無く初代王を天の子としている。

 ナムリ・ソンツェン王はラサ南東のヤルルン渓谷(ロカ地方、波窩地方)を起点として、近隣部族のセンポやタボ、東部の小部族を征服し勢力をラサ地方へ伸ばした。630年、ナムリ・ソンツェン王が反逆者によって毒殺されると、子のソンツェン・ガンポ王(在位:630 - 650年)が即位する。633年、ソンツェン・ガンポ王は前王の死後反乱を起こした蘇毗族(中国語版、英語版)(スムパ[6])、センポ族、タボ族、大羊の反乱を平定して都をラサに定めた。史書ではインドへ人を遣って文字を学ばせ、トンミ・サンボータ(チベット語版、英語版)が数名のインドの仏教僧とともにチベット文字を創成したと書かれている。

634年、ソンツェン・ガンポ王は唐へ相互に使臣を遣わし、礼物を贈りあう。さらに王国の南に位置するネパールのリッチャヴィ朝に使者を遣わし、前王アンシュ・ヴァルマー(在位: 605 - 629年)の娘、ティツン王女(ブリクティ、ペルサ)を妃に迎える、仏教国であったネパールの影響により仏教が広まった。さらに636年、唐の太宗のもとへ妃を迎えるため使者を遣わすが、太宗に拒絶される。同年、王は20万の兵を率いて唐の強い影響下にあった青海の吐谷渾に出兵、白蘭などの羌族の部落を攻め落とし、松州(現四川省松潘県)に迫るが(松州の戦い)、唐に敗れた。その後、再び太宗のもとへ求婚の使者を送り、さらにガル・トンツェンユルスンを遣わし、金五千両を結納として贈る。

638年、ソンツェン・ガンポの息子グンソン・グンツェンが吐蕃の王に即位。これらの外交が実り、641年に唐王室の娘である文成公主(ギャサ)をグンソン・グンツェンの妃として迎える。グンソン・グンツェン王は文成公主が赭面(しゃめん:顔に赤土を塗る)の風習を嫌がったためこれを禁じるなど公主を丁重に扱った。文成公主は唐から連れてきた工匠たちに小昭寺(ラモチェ)を建立させ、釈迦牟尼像を祀り、ティツン王女(赤尊公主)の大昭寺(ジョカン寺、トゥルナン寺)建立を手伝った。このように文成公主との結婚(唐では降嫁と呼んだ)により唐との結びつきを強めた。さらに王は貴族の子弟を唐の都、長安へ留学させ、唐を参考にして吐蕃の軍事・行政制度を整えた。643年にグンソン・グンツェン王が23歳で死去し[7]、ソンツェン・ガンポが王に復位した。なお、同年、シャンシュン王国を併合し、ナレーンドラ・デーヴァ(在位:643年頃 - 679年頃)をリッチャヴィ朝の君主に据えている。

646年、ソンツェン・ガンポ王は太宗の高句麗遠征(唐の高句麗出兵)勝利の祝賀に大論ガル・トンツェンを遣わした。 647年、ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)が亡くなり混乱したヴァルダナ朝へ派兵し、政権を簒奪したアラナシュ(阿羅那順)を捕らえ、ヴァルダナ国を属国とした。この時、唐の使者王玄策を保護している。更に大軍を率いて当時分裂状態に陥っていたガンジス川北岸の小国を幾つか帰服させて年賦金を課した後、中部インドのマガダ国まで侵攻すると、大した抵抗に出遭うことも無く仏教寺院を略奪して多くの聖遺物を奪い、ガンジス川北岸一帯を支配下に置き帰還している。  

649年、唐の太宗が死去し高宗が即位すると、王は馬都尉(公主の夫が受ける官位)、西海郡王の官位、多数の礼物を受ける。さらに太宗の霊前に十五種の金銀珠玉を供え、さらに賓王の位と礼物を贈られた。 また唐の優れた工芸技術(蚕種、酒造、製紙、製墨)を取り入れるため唐から工匠の派遣を得た。ソンツェン・ガンポ王は吐蕃を発展させたが、晩年は功臣の処刑が続き、スムパ族(蘇毗)平定に大功のあったニャン・マンポジェシャンナンや、蔵蕃を帰順へ導いた謀臣のキュンポプンサを粛清している。649年末、病のため死去した。

 

ガル一族の執権と唐との戦争

ソンツェン・ガンポ王が死ぬと、王の子グンソン・グンツェンと文成公主の子であるマンソン・マンツェン(在位:650 - 676年)が8歳で即位し、大論(宰相)ガル・トンツェン(在任:652 - 667年)が国政を執った。 663年、吐谷渾の大臣が吐蕃に投降したのを機にガル・トンツェンは兵を率いて吐谷渾を征圧する。さらに唐の制度を参考に吐蕃の行政,軍事,租税登録,徴発制度を改めて整備した。

 667年にガル・トンツェンが死去すると、長子のガル・ツェンニャドムプが大論の位を継いだ。弟のガル・ティンリンは積極的に唐の西域で軍事行動を行い、670年、唐の安西都護府管轄の安西四鎮(亀茲、焉耆、于闐、疏勒)を攻め落として天山南路を遮断した。唐は10万の大軍を率いて反撃に出たが、ガル・ティンリンは40万の大軍を用いて、青海湖南の大非川で唐軍を大いに打ち破った(大非川の戦い)。しかし、吐蕃は天山南路の諸都市を統治せず、撤退して東部での戦争を始める。唐はこの戦争で痛手を受けた上、新羅が反乱を起こした(唐・新羅戦争)。

 676年、マンソン・マンツェン王が死去し、ティドゥ・ソンツェン王が即位すると、大羊と熱桑部が背くも短期間のうちに鎮圧された。唐はこの間に再び新羅を冊封して東方を固め、678年に中書令の李敬玄が18万の兵で青海へ侵攻してきたが、ガル・ティンリンはこれを撃退した。このとき唐の前軍の将が捕虜となっている。

 680年、唐と吐番の友好に尽力した文成公主が40年の滞在を経て吐蕃にて死去。唐より使者が遣わされ弔意を表される。 683年、現四川省の柘州・翼州で略奪を働いて迎撃に出た唐軍を打ち破り、また隴右に転戦して藩鎮の河源軍を破っている。翌684年にも吐谷渾の騒乱を収拾するなど、ガル・ティンリンの威勢は東部に於いて王に警戒される程となった。

 692年、唐は軍を起こして西域へ侵攻、安西四鎮は陥落した。696年、唐に対して勝利を収めた。

699年、ティドゥ・ソンツェン王は東部に割拠して国政を王と二分していたガル一族の排斥を目論み、軍を率いてガル氏の拠点を襲撃し大論のガル・ティンリンを自殺に追い込んだ。この粛清劇により、ガル氏は表舞台から消えた。

 この頃、吐蕃に茶葉と喫茶の習慣がもたらされ、陶器が造られるようになる。

 

唐との講和と南詔の冊封8世紀後半の吐蕃と周辺国)

704年、ティドゥ・ソンツェン王が南詔親征中に戦死すると、生まれたばかりのティデ・ツグツェン[11](在位:704 - 755年、別名:メー・アクツォム)が即位し、祖母(チマル(英語版))方のブロ[12]氏が政権を掌握したが政権は安定せず、デレンパノナンジャやケガドナンが反乱を起こし、吐蕃王族が国王に就いていた属国のネパールも背いた。チマルは乱を鎮圧し、吐蕃は唐の則天武后に妃として公主を求めた。唐はこれに応じ、吐蕃は710年に中宗の養女である金城公主を迎える。大論(宰相)であったシャンツァントエルトサイビンが公主を迎えに長安へ赴いたとき、宮中で馬球試合が行われたという。

チマルの没後、712年に大論バー・クリジシャンネンが任命され摂政したが、国威は振るわなかった。713年には以前から要請していた河西九曲の地(現:青海省東南部黄河曲部、同仁県周辺)を金城公主の斎戒沐浴地として唐から贈られた。

 722年、吐蕃はギルギット(現:パキスタン)を占領したが、710年代-730年代は連年唐(蕭嵩)と戦うも反間の計に掛かり歴戦の大論(宰相)バー・タジャコンルーを処刑した事もあって、東部の諸城を落とされるなど軍事的劣勢が続き、度々唐と講和した。739年、金城公主は吐蕃にて死去する。

 

吐蕃・唐の内乱と唐の弱体化

751年、トゥーラーンの支配権を巡って唐は、前年のザーブ河畔の戦い(英語版)に勝利して誕生したばかりのアッバース朝とタラス河畔の戦いを行なったが、カルルクがアッバース軍に寝返り、敗れた唐は中央アジアの覇権を失った。同年、唐の剣南節度使、鮮于仲通が南詔に大敗。752年、唐に攻められた南詔国王閣羅鳳が吐蕃に助けを求め、王は閣羅鳳を王弟として冊封する。754年に唐の楊国忠が派遣した四川長官の李宓が南詔を攻撃した際には、兵を送り南詔と共に唐軍を破った。

ティデ・ツグツェン王の時代は唐や西域から仏僧を拉致或は招き、また寺院の建造が度々行われるなど積極的に仏教が布教されていたが、754年に大論(宰相)であった功臣のランメシクとバルドンツァブが謀反し、755年にティデ・ツグツェン王が近衛兵によって殺害されスムパ族(蘇毗)も反乱を起こした。ティデ・ツグツェンと金城公主の子ティソン・デツェン[13](在位:755 - 797年)は乱を鎮圧して蘇毗族も滅ぼし王位を継ぐが、実権は大論(宰相)マシャン・ジョンバジェを筆頭とする外戚が握っており、仏教を崇拝していた前君の横死を理由に外国人の高僧を国外へ追放し仏教を法律で禁じた。

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プロフィール

HN:
漢文委員会 紀 頌之(きのあきゆき))
年齢:
77
性別:
男性
誕生日:
1946/09/10
職業:
文学者
趣味:
中国文学
自己紹介:
漢詩から唐・宋詩まで基本となる詩人・詩集を各全詩訳注解説してゆく、その中で、これまで他ブログに、掲載した女性の詩を、手を加えて、整理して掲載してゆく。
これまで日本では紹介されていないもの、誤訳の多かった詩などを、時代の背景、出自、その他関連するものなどから正しい解釈を進めてゆく。
毎日、20000文字掲載しているので、また、大病後で、ブログコミュニケーションが直ちに取ることができないけれど、精一杯努力してお返事いたします。

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