詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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2017年5月19日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-020-#2巻181-26 商山四皓(卷二二(二)一二九三)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8735 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-87 先生-巻八-01#6城南聯句 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8736 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-110 別蘇徯 杜詩詳注(卷一八(四)一五九八)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8749 |
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (195)回目牛嶠二十六首《巻四23玉樓春一首》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8738 (05/19) |
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fc2 |
Blog |
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●花間集全詩●森鴎外の小説の”魚玄機”詩、芸妓”薛濤”詩。唐から五代詩詞。花間集。玉臺新詠連載開始 |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
・玉臺新詠 |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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唐代女性論 |
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四-1、公主、高貴な者の婚姻と命婦制度
唐代のことわざ「婦を娶リて公主を得れば、事無くして官府に取えらる」
「帝子天姫」「金枝玉葉」(天子の子女、帝室の一族をいう)といわれるように、天子の娘である公主は唐代女性の中でもっとも高貴で権勢をもつ人々であり、またもっとも勝乎気ままに振舞って礼法に縛られない存在であった。
人口に檜戻している「打金枝」(皇帝の娘を打っ)という芝居は次のような物語である。昇平公主(代宗の娘)は皇帝の娘であることを侍み、夫の父(郭子儀)の誕生日にも御祝いに行かなかった。また厨馬(公主の夫の称号)の郭曖に対しても高慢無礼の態度であったから、夫は怒り彼女を打った。すると父の郭于儀は息子を縛って御殿に上り罰を願った。幸いにも皇帝は道理を知っており、罰を加えず結婚直後のように仲良くさせた。この話は代宗の娘昇平公主の逸事を語ったものであり、必ずしもすべて真実でもないが、人物、筋書きとも基本的に歴史事実に符合している(趙燐『因話録』)。この逸話は唐代の公主たちの生活と結婚の情況をじつによく表している。
一 「封爵」と「食実封」の制度
唐代の命婦制度では、皇帝の姑母(父の姉妹)を大長公主、皇帝の姉妹を長公主といい、皇帝の娘
を公主と称した。公主たちにはみな封号が与えられた。その封号は地名(国名の場合もあれば、郡名の場合もある)によるもの、たとえば代国公主、雷国公主、平陽公主、東陽公主など、それに美称によるもの、たとえば太平公主、安楽公主などがあった。皇太子の娘を郡主と称し、また封号として新都郡主、義安郡主などの称号が与えられた。親王の娘を県主と称し、文安県主、東光県主などという封号が与えられた。
* 命婦制とは高貴な身分の女性に授与する封号を定めたもの。皇帝の母や妃娘等に対しては内命婦制が、公主など外朝の男に嫁した者に対しては外命婦制が定められていた。外命婦には国夫人、郡夫人、郡君、県君、郷君の五等級があった。
『新唐書』「諸帝公主伝」と『唐会要』「公主」の項(以下この二書によるものは出典を省略)の記載によると、唐朝には全部言二二人の公主がいた(この中には周辺異民族に降嫁させるために、特に公主に封ぜられた宗室の女性、たとえば文成公主などは含まれない)。郡主、県主がどれだけいたのかはわからない。これら公主、郡主、県主はみな皇族李氏の女性であったが、他に武則天の時代に武姓の女性や武則天の愛娘太平公主の娘が県主に封じられたこともあった。
公主たちの封号は一種の単なる栄誉の称号であって、何ら実際的な意味はなかった。彼女たちが封じられた国、郡とも何ら関係はなかった。彼女たちの実際の利益、経済収人は、いわゆる「食実封」によるものである。食実封とは、国家が貴族にいくらかの農戸を封戸として給するものであり、貴族はその封戸から租・調の銭糧や布帛などを微収して生活の資にした。一般的にいえば、公主が嫁に行く前は宮中での生活物資は、一切宮廷から支給された。降嫁して後は賜給された封戸が衣食の資となった。しかし、およそ玄宗の時代から、まだ嫁に行かない幼い公主にも封戸が賜給されるようになった。唐初の食封制度に照らすと、公主には三百戸が、長公主には最高六百戸が与えられた。高宗の時代になると、武則天の▽Λ娘太平公主は大変な寵愛をうけたので、食封も定額を越え、武則天の周王朝の時には三干戸にもなった。後に中宗が即位すると、太平公主は功績によって五干戸に加増した。中宗の章后が生んだ二人の娘安楽・長寧の両公主はそれぞれ食封三干戸と二千五百戸に加増し、腹ちがいの娘宜城公主等も二干戸に加増した。これは公主の食実封が最も多い時期である。容宗の時代になると、太平公主の権力が天下で最大となり封戸も一万戸に増え、唐朝の公主のなかで最高の額に達した。
玄宗の時代、公主たちの封戸がぴじ太うに多かったので、それを削減して長公主等は一千戸、公主は五百戸を限度にした。また与えられる封戸は壮丁(税を負担する成年男子)が一家に三人以内の戸とした(なぜなら、玄京朝の前に太平公主と安楽公主は競争して、「財産が多く壮丁の多い」富戸を封戸として取り込んだからである)。それ以後、武恵妃が玄宗の寵愛をほしいままにしたので、その娘の成宜公主は一于月の封戸を賜った。これによって他の公主も一干戸に加増され、以後、これがおよその定制となった。
公主たちは降嫁して後も、公主の食封を管理する役所である「公主邑司」を設け、令、丞、録事、主簿等の大小の役人を置いた。これらの役人は公主の封戸から税を取り、田園、倉庫、財物収人などを専門に管理した。玄宗の開元以前は、公主邑司と国家の官吏は一緒に公主の封戸から税を微収したが、開元年間になると国家が統一して封戸から徴収し、それを公主に支給するように変った。唐の後期になると、食実封はしだいに名目だけになり、国家が直接彼女たちに税収に相当する物資を支給するようになった。たとえば徳宗の貞元年間に「諸公主には毎年それぞれに封物として布帛七百端、疋、屯を給す」(『唐会要』巻九〇「縁封雑記」)とした。これは俸禄とほぼ同じであり、国家の供給制となった。
郡主、県主もまた降嫁の後に封戸を賜った。たとえば武則天の時代、武姓の県主はみな封戸を持ち、玄宗も襄楽県圭等にそれぞれ実封一亘戸を与えた(『全唐文』巻三六、玄宗「襄楽県主等に実封を加うる
勅」)。ただすべての郡主や県主に与えたかどうかは不明である。唐の後期にはだいたい国家の供給制に変ったのであり、貞元年間の規定では「郡主、県主の夫が官を罷めた場合は、郡主には四季ごとに七万銭を、県主には四季ごとに五万銭を支給する。夫が死去した場合もこの規定に照らして行う」とした。後にまたこれを改めて、夫が官であるか否かに関係なく、「郡主には四季ごとに銭一百貫(十万銭)、県主には七十貫(七万銭)を支給する」とした(『唐会要』巻六「公主」)。
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2017年5月18日 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-86 先生-巻八-01#5城南聯句 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8730 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-109#4 贈蘇四徯#4 杜詩詳注(卷一八(四)一五九八 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8743 |
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 |
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Ⅳブログ詩集 |
漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (194)回目牛嶠二十六首《巻四22定西番一首》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8732 (05/18) |
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Ⅴ.唐五代詞詩・女性 |
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Ⅵ唐代女性論 ninjaブログ |
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三-2 宮人(人間性を全否定され、完全隔離の中での生活)
心は黄蓮の如く〔苦く〕、身は紅葉の如く〔はかなし〕
三千の宮女 朋脂の面、幾箇か春来りて涙の痰無からん」(白居易「後宮詞」)。古来、宮人は女性のなかで最も人間性を踏みにじられた人々であり、宦官とともに君主専制制度の直接の犠牲者であった。一方は生殖器をとられ身体を傷つけられた者、一方は人間性を踏みにじられた者である。宮人は奥深い後宮の中に幽閉されて永遠に肉親と別れ、青春と紅顔は葬り去られ、愛情と人生の楽しみは奪われ、生きている時は孤独の苦しみに、また死んだ後は訪れる人もない寂しさの中に置かれた。それで多くの知識人が、彼女たちの境遇に心を痛め嘆息してやまなかったのである。
彼女たちの痛苦の生活と心情を理解しようとすれば、白居易の「上陽の白髪の人」ほど真実に迫り、生々と彼女たちの人生を描写したものはない。
上陽の白髪の人 白居易
上陽人,紅顏暗老白髮新。
綠衣監使守宮門,一閉上陽多少春。
玄宗末歲初選入,入時十六今六十。
同時采擇百餘人,零落年深殘此身。
憶昔吞悲別親族,扶入車中不教哭。
皆雲入內便承恩,臉似芙蓉胸似玉。
未容君王得見面,已被楊妃遙側目。
妒令潛配上陽宮,一生遂向空房宿。
(上陽 白髮の人)
上陽(宮)の人、紅顏暗く老いて白髪新たなり。
綠衣の監使宮門を守る、一たび上陽に閉ざされてより多少の春。
玄宗の末歲 初めて選ばれて入る、入る時十六今六十。
同時に採擇す百余人、零落して年深く 此の身を殘す。
憶ふ昔 悲しみを吞みて親族に別れ、扶けられて車中に入るも哭せしめず。
皆云ふ 入內すれば便ち恩を承くと、臉は芙蓉に似て胸は玉に似たり。
未だ君王の面を見るを得るを容れざるに、已に楊妃に遙かに側目せらる。
妒(ねた)みて潛かに上陽宮に配せられ、一生遂に空房に宿す。
上陽の人は、紅顏暗く老いて白髪が新たである、
綠衣の監使が宮門を守っています、ここ上陽に閉ざされてどれほどの年月が経ったでしょうか、玄宗皇帝の末年に選ばれて宮廷へお仕えしましたが、その時には16歳でしたのが今は60歳
同時に100人あまりの女性が選ばれましたが、みなうらぶれて年が経ちわたしばかりがこうして残りました、思い起こせば悲しみを呑んで親族と別れたものでした、その時には助けられて車の中に入っても泣くことを許されませんでした
皆は入内すれば天子様の寵愛をうけられるといいました、あの頃のわたしは芙蓉のような顔と玉のような胸でした、だけれどもまだ天子様にお会いできる前に、楊貴妃に睨まれてしまい、妬みからここ上陽宮に押し込められて、一生を遂に空しく過ごしました
秋夜長,夜長無寐天不明。
耿耿殘燈背壁影,蕭蕭暗雨打窗聲。
春日遲,日遲獨坐天難暮。
宮鶯百囀愁厭聞,梁燕雙棲老休妒。
鶯歸燕去長悄然,春往秋來不記年。
唯向深宮望明月,東西四五百回圓。
今日宮中年最老,大家遙賜尚書號。
小頭鞋履窄衣裳,青黛點眉眉細長。
外人不見見應笑,天寶末年時世妝。
秋夜長し、夜長くして寐ぬる無く天明ならず。
耿耿たる殘燈 壁に背く影、蕭蕭たる暗雨 窗を打つ聲。
春日遲し、日遲くして獨り坐せば天暮れ難し。
宮鶯百たび囀ずるも愁へて聞くを厭ふ、梁燕雙び棲むも老いて妒むを休む。
鶯は歸り燕は去って長へに悄然たり、春往き秋來して年を記さず。
唯だ深宮に明月を望む、東西四五百回 圓かなり。
今日 宮中 年最も老ゆ、大家遙かに賜ふ尚書の號。
小頭の鞋履 窄【せま】き衣裳、青黛 眉を點ず 眉細くして長し。
外人は見ず 見れば應に笑ふべし、天寶の末年 時世の妝ひ
秋の夜は長い、夜が長くて眠ることもできず空もなかなか明けません、ちらちらと揺れる灯火が壁に影を写し、しとしと降る雨が窓を打つ音がします、
春の日は遅い、日が遅い中一人で坐し得いますが空はいつまでも暮れません、
宮殿の鶯が百度囀ってもわたしは悲しくて聞く気になれません、梁の燕がつがいで巣くっても老いた私には妬む気にもなれません、鶯は故郷へ帰り燕は去ってもわたしは悲しい気持ちのまま、季節が移り変わってもう何年になるでしょうか
ここ深宮で月の満ち欠けを見てきましたが、満月はすでに四・五百回も東西を往復しました、おかげで宮中第一の年寄りになってしまいました、天子様はそんなわたしに尚書の號を賜ってくださいました
、
そのわたしときたら先のとがった靴を履いてぴったりとした衣装を着て、黛で眉を描きますがその眉は細くて長いだけ、もしよその人に見られたら笑われるでしょう、これは天宝の昔に流行った御化粧なのです
上陽人,苦最多。
少亦苦,老亦苦。少苦老苦兩如何?
君不見昔時呂向《美人賦》,〈天寶末,有密采艷色者,當時號花鳥使。呂向獻
《美人賦》以諷之。〉又不見今日上陽白髮歌!
上陽の人、苦しみ最も多し。
少くして亦苦しみ、老いて亦苦しむ。
少くして苦しむと老いて苦しむと兩つながら如何。
君見ずや 昔時 呂向の《美人の賦》、又見ずや 今日 上陽白髪の歌
上陽の人は、苦しみが最も多い、若くしても苦しみ、老いてもまた苦しむ、若くして苦しむのと老いて苦しむのとどちらが辛いだろうか、どうかご覧あれ、昔は呂向の美人の賦、またご覧あれ、いまは上陽白髪の歌
* 呂向は玄宗の派遣した花鳥使を題材にして「美人賦」を詠み、宮女の悲しみを歌った。
この白髪の詩一首は、今日でも後宮の不幸な女性たちに一掬の同情の涙を流させる。
九重の深宮は宮人たちの身体を鎖で縛っているが、彼女たちの若い心を縛ることはできなかった。彼女たちは憂え恨み悲しんだが、しかしなおも愛情と幸福を渇望していた。現世がすでに瀞茫たるものであったから、希望と夢を来世に託すほかなかったのである。永く後世に伝わった次の「紅葉に詩を題す」の物語は、生々と彼女たちの心情を伝えている。
言い伝えによれば、玄宗の時代、詩人の顧況は宮中の堀川の流れの中から一枚の大きな青桐の葉を拾った。その葉に宮人の「一たび深宮の裏に入れば、年年 春を見ず。聊か一片の葉に題し、有情の人に寄せ与う」(天宝宮人「洛苑の梧葉上に題す」)という歌一首が書いてあった。顧況はその詩に和して一首を作り川の流れに送った。後に玄宗はそれを知り、少なからぬ宮女を後宮から解放してやった。また次のような伝説もある。宣宗の時代、科挙の試験に応じた盧渥は宮廷を流れる堀川に一片の紅葉を見つけた。それに「流水 何ぞ太だ急なる、深宮 尽日閑なり。殷勤に紅葉に謝す、好し去きて人間に到れ」(宣宗宮人韓氏「紅葉に題す」)とあった。後に宣宗は宮人を解放し、その詩を書いた宮人は運よく盧渥に嫁ぐことができた(いずれのエピソードも芭濾『雲渓友議』巻一〇に収める)。
こうした伝説ははなはだ多く4内容は異なっているが、筋は大同小異である。「紅葉に詩を題す」とよく似たものに、「繍衣に詩を題す」という伝説がある。一つは開元年間のこと、宮中の女性たちが辺境守備の兵士の軍衣を作ったところ、後にブ人の兵士が綿衣の中から詩一首を得た。それに「沙場 征戦の客、寒夜 眠りを為すに苦しむ。戦袖 手を経て作るも、知んぬ阿誰の辺に落つるかを。意を蓄て多く経を添え、情を含みて更に綿を着く。今生 已に過ぎたり、後身の縁を結び取らん」とあった。玄宗はこの詩を書いた宮人を捜し出し、その兵士の嫁にやった(『太平広記』巻二七四)。また、信宗の時代のこと、辺境を守備する兵士が宮人によって戦抱に縫いこまれた金の首飾と詩一首を発見した、という話もある(『唐詩紀事』巻七八)。こうした類の伝説は、多分に伝奇的な色
彩が加わって行くので、必ずしもすべて真実というわけではないが、深宮に幽閉され、一日がまるで一年にもあたる耐え難い目々に対する宮人たちの恨み、それに加えて民間の自由で愛情ある生活に対する憧れと渇望の激しさを反映しているのである。
宮人たちが老いて深宮の中で死んだ後は、「宮人斜」と呼ばれる墓地に埋められた。「雲惨ましく煙愁えて苑の路は斜めに、路傍の丘尿は尽く宮娃なり」(孟遅「宮人斜」)というわけであった。彼女たちは生前は孤独に苦しんだが、死後はより一層寂しく惨めであった。後宮で一生を終えない人もいたが、その運命は堀川の流れに漂う紅葉よりもさらにあてどのないものであった。天子は気ままに宮人を贈物とし、外藩(臣従してくる異民族)や功臣に褒美として与えたので、披女たちの結末がどうなるのか、仝く運命の流れに身を委ねるほかなかった。
老いて天寿を全うできたなら、彼女たちにとってはやはり幸せなことだった。後宮にはいたるところ危険が潜んでおり、宮人たちは常に政治闘争や宮廷の政変に巻きこまれ、身分が下賤であったから、しばしば理由もなく刀刃の露と消えた。文宗は楊賢妃の後言を信じて皇太子を死なせてしまったが、後に後悔した。しかし自分の愚かさを咎めることなく、かえって宮人の張十十等を責めて「吾が太子を陥れたのは汝等である」(『旧唐書』文宗二子伝、『新唐書』十一宗諸子伝)といった。これらの宮女たちはみな処刑されてしまった。宮人の杜秋は穆宗の時、皇子の保母であった。この皇子が後言によって罪に落されたので、披女も巻き添えになって故郷に追い返された。年を取って飢えと寒さがこもごも加わり、また孤独で頼るところがなかった。杜牧などの名士が気の毒に思い、有名な「杜秋娘の詩」を作って彼女の哀れな運命を悼んだ。また宮人たちは不用意にも皇帝の怒りに触れ、死の禍を招くこともあった。文宗の時、宮妓の鄭中丞は皇帝の命に逆らって死を賜った。彼女を棺桶に入れて川に流したところ、ある人が助け出し自分の妻にした。文宗はそれを知ったが、いくらか慈悲心を発して再び罰することはなかった。この宮女は幸いにも、かろうじて生きる道を与えられた者といえよう(段安節『琵琶録』)。
唐朝の宮人たちの中で最も悲惨な運命にあった人として、宣宗の時の絶世の一美女をあげねばならない。宣宗は一人の美女が献上されるとたいへん喜び、数日の内に無数の賞賜を与えた。ところがある日の朝、宣宗は悶々として楽しまず次のように言った。「明皇帝(玄宗)はただ楊貴妃一人だけを寵愛したので天下は今に至るも平穏ではない。このことはどうして忘れられようか」。そしてこの美人を呼んで「お前をここに留めておきたいが、それは出来ない」と言った。左右の者が彼女を宮から出してやるべきでし?っと申し上げたところ、宣宗は「放してやれば朕の想いが残る。鴉毒(塙の羽にある猛毒)の盃をやろう」といった(「唐語林」巻七「補遺」)。まさに豺狼(豺は山犬)の論理である。宣宗は唐代後期の比較的見識のあった皇帝であるが、宮人の生命に対してはこのように残忍であった。鯨宗は愛娘の同昌公主が死ぬと、宰相劉晦の諌めもきかずに公主の乳母、保母などを一人残らず殉葬してしまった。およそ以上に述べてきたような話は、一言でいえば、宮人の命など蝶や蟻の如きもので、人の踏むままにされたということである。宮人がたとえ男子を生んだとしても、宮廷、とりわけ唐の宮廷は出身・家柄を重んじたので、「母は于を以て貴し」ではなく逆に「子は母に因りて賤し」ということになった。史書の記載によると、宮人の生んだ皇子は多くが顕貴の部類には入れられず、また全く生かされなかった場合も多かったようである。審宗の二番目の男子は宮人柳氏が生んだ子であった。武則天はこの孫は出自がきわめて賤しいと思い、養育する準備をしなかった。しかし僧侶の話を聞いてやっと生かしてやった。宮人たちはお腹を痛めたわが子を保護する力もなく、母の愛さえ奪われたのである。
残酷な圧迫と虐待は、耐え忍ぶことのできない一部の宮人の反抗をまねいた。宣宗の時、ある宮人は宣宗を謀殺しようとしたが、宦官から射殺され成功しなかった(『新唐書』宦者伝古。
4 宮人の解放
唐朝後宮の宮人の数はたいへん多かったが、それでも、宮人の採用は止むことはなかったので、後宮では恨みつらみが積もり、また民間でも不満が生れた。それで宮人問題は社会と朝廷の注目をあびることになった。どの皇帝の時代にも、この悪政を批判し、宮人たちが家族や恋人と離別させられる恨みや苦しみに同情して、彼女たちを放ち帰らせるようにと皇帝に願い出る人がいた。皇帝たちは、自分が徳政を実施し、歌舞音曲や女人を好まない振りをするために、また時には純粋に宮廷費用を節約するために、あるいはまた、後宮に怨恨が満ち溢れたせいで、災難にあって「天罰」を受けることを恐れるために、しばしば詔勅を発して宮人を解放した。唐朝では高祖より後、ほとんどの皇帝が宮人を解放したという記録がある。多い時には三千人、少ない時でも数百人であった。
これら宮人は宮中を出てから家のある者は家に帰り、嫁に行くことも可能だった。老いて病いのある者、身寄りのない者などは去I一や道観(道教の寺院)に送って収容し、時々少しばかりの金晶を支給し生活の用とした(『全唐文』巻四二、粛宗「宮人を放っ詔」)。これは唐朝の皇帝のわずかばかりの仁政ということができる。しかし解放したといっても、宮人の数はいぜんとして相当なもので、唐末でも相変らず「六宮の貴・賤の女性は一万人を滅らない」という状況であった。その理由は、もともと解放された女性が多くない上に、絶えず新人が選抜されて入って来たので、根本的な問題の解決にはならなかったからである。そしてまた、解放された宮人の大多数は年を取り病弱であって役に立たず、彼女たちの青春はすでに深宮の中に葬り去られていたので、後宮を出ても寄る辺なく、晩年の境遇はじつに哀れで寂しいものであった。これと同時に青春の輝きの絶頂にある乙女たちが次々と絶えることなく後宮に送り込まれ、その紅顔が衰え、青春が空しく費やされるのを待つのであった。だからこの種の仁政の意義などというものは、本当に取るに足りないものだったのである。
後宮に積った女性たちの怨みを緩めるために、皇室もいくらか対策を講じた。たとえば、毎年上已の日(三月上旬の巳の日)に宮人が肉親と会うことを許した。これは唐朝のち太っとした開明的なところといえる。「宮女は毎年の上巳の目、興慶宮内の大同殿の前で親族と会って安否を尋ね、互いに贈物をやり取りすることを許された。一日の内に訪れる人の数は数千から一万にのぼった。やって来てすぐに親族と面会できる者もいれば、夕暮に及ぶまで家族の名を呼べど至らず、泣いて後宮に帰る者もあり、毎年このようであった」(尉遅渥『中朝故事』)。この一幅の情景は監獄での面会とほとんど大差なく、宮人たちもまたまちがいなく高等監獄の囚人であった。
2017年5月17日 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-019-#3巻174-07 留別王司馬嵩(卷十五(一)九○九)Ⅰ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之 李白詩集8723 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-85 先生-巻八-01#4城南聯句 【韓愈、孟郊】【此首又見張籍集】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8724 |
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Ⅲ 杜詩 |
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767年-109#3 贈蘇四徯#3 杜詩詳注(卷一八(四)一五九六 Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8737 |
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三-1 後宮の職掌と生活
彼女たちは身を九重(天子の宮殿)に置き、はなはだ高貴であるように見えるが、じつはただの皇帝家の家婢に過ぎず、衣食の心配がなくたいへん幸福のように見えるが、じつは人間性を最も残酷に破壊された人々であった。 宮廷においては、少数の地位の高い后妃の他は、万単位で数えられる普通の宮人であり、唐代では「宮女」「宮蛾」「宮婢」などとも呼ばれていた。彼女たちは長安にあった三大皇宮(太極宮、大明宮、興慶宮)と東都洛陽にあった大内(天子の宮殿)と上陽の両宮殿、及び各地の離宮、別館、諸親王府皇帝陵にそれぞれ配属されていた。
1 宮官と職掌
宮廷は小社会であり、宮人の中にも身分の高下貴賤があり、また様々な等級があった。后妃たちに「内官」の制度があったように、宮人たちには「宮官」の制度があった。宮官と内官を比較してみると、品階の上で差があったばかりでなく、いくらかの本質的な区別があったようだ。つまり、内官は官と称したが身分上は妃娘の身分に属すべきもの、つまり皇帝の妾でもあったが、宮官にそうした身分はなく、ただ宮中の各種の事務を司る職員にすぎなかった。当然、これはあくまで身分上のことに過ぎず、彼女たちと皇帝の実際の関係に何ら影響しないことは、ちざっど主人と家婢の関係と同じである。
宮官は宮人の最上屑にある人々であり、後宮のさまざまな部局に属する職員であった。唐朝の後宮には六局(尚宮局、尚儀局、尚服局、尚食局、尚寝局、尚功局)があり、宮中のすべての事務を管理していた。六局の各首席女官の尚宮、尚儀、尚服、尚食、尚寝、尚功が六部の尚書(長官)になった。六局の下に二十四司を統括し、各司の女官はそれぞれ別に司記、司言、司簿、司闇、司籍、司楽、司賓、司賛、司宝、司衣、司飾、司使、司膳、司酷、司薬、司錨、司設、司輿、司苑、司灯、司制、司珍、司絃、司計に分けられていた。またその他に二十四典、二十四掌、及び宮正、阿監、形史、女史など各級の女官もあった。これらの女官には品級・給与が与えられており、彼女たちは礼儀、人事、法規、財務、衣食住行(行は旅行、出張等の手配)などの宮廷事務を担当した(『旧唐書』職官志三)。
宮官は事務官であったから、必ずしも容貌とか、皇帝のお気に召すかどうかにこだわる必要はなく、良家の出身で才徳兼備の女性を選びさえすればよかった。著名な才女であった宋若昭は、徳
宗によって宮中に召され宮官の首席尚宮に任命された。裴光廷の母車秋氏は婦徳の名が高く、武則天に召されて女官御正に封じられた(『新唐書』裴行倹伝)。
六局の宮官の他に、宮中には内文学館があり、宮人の中の文学の教養ある者を選んで学士とし、妃娘や宮人に教養、読み書き、算術などを教育する仕事を担当させた。宋若昭は六宮の文学士をも兼ね、皇子、妃嬉、公主、騎馬(公主の婿)などを教育したので、「宮師」とよばれた。宮人の廉女真は隷書をよくし、宮中の学士に任じられたこともあった(『全唐詩』巻五一九、李遠「廉女真の葬を観る」)。唐末、李菌が一人の元宮人にあったところ、彼女は自らかつて「侍書家」であったと云った(孫光憲『北夢瓊言』巻九)。おそらく書に優れていたのでこの職に任命された宮人であったと思われる。
これら宮官の中のある者は品級が高く、権勢があり、宮中で尊ばれたばかりか、はては外廷の官僚さえも彼女たちに取り入って功名を図ろうとした。こうしたことにより、一部の宮人は外朝の政治に関与することもできたが、しかし、彼女たちの身分は所詮皇帝の家婢にすぎなかった。ある皇子の守り役が太宗(李世民)の弟舒王に、‐1尚宮(宮官の長)の品秩の高い者には、お会いになった際に拝礼をなさるべきです」と論したところ、舒王は「これはわが二番目の兄(李世民)の家婢ではないか。何で拝する必要があるか?」と言った(『旧唐書』高祖ニトニ子伝)。この言葉は一語で宮官身分の何たるかを喝破している。
2 仕事と生活
宮人は六局、二十四司に分属して管理され、各職務に任命された。彼女たちは出身、容姿、技芸の才能などによって、それぞれに適した任務と職掌が与えられていた。上級の宮人は大半が近侍となり、皇帝、后妃の日常生活や飲食等の世話に従事した。その他に皇帝が朝政に当たる時は側に侍り、内廷から皇帝の勅命を伝える任務にも当った。唐末の哀帝の時代になって、こうした任務ははじめて廃止され、宮人は内廷の門を自由に出ることが禁じられた。その他の下層の宮人は宮中のこまごまとした各種の雑事を分担した。たとえば、ある種の宮人はもっぱら宮中の門を見張っていたので「戸婢」とよばれた。また裁縫、織布、刺繍など、女腎特有の仕事を専門にする宮人は、皇帝后妃などの衣服を調達したり、また軍服をつくる仕事も兼ねた。また宮中の掃除や、庭園、灯火、倉庫など一切の管理事務を受けもつ者もいた。
労働と近侍の他に、宮人のもう一つの役割は皇帝を楽しませることであった。中宗は宮女たちに宮中で市場を開いて晶物を売らせたり、また大臣たちに宮女たちと商売をさせ、その際わざと喧嘩の種をまいて自分と皇后を楽しませた。玄宗と楊責妃は歓楽のために数百人の宮妓、宦官を並べて「風流陣」(両陣に分れて競う遊戯の一っ)をつくらせ、錦で旗をつくって互いに戦わせて楽しんだ(『開元天宝遺事』巻下)。皇帝は名声と身分の高い后妃たちに対しては、常に一定の尊重の気持をもっていたが、宮女たちに対しては気の向くままに戯れたり、もて遊んだりすることができた。玄宗の時代、皇帝の寝所に侍ったお手付きの宮女は、皆腕に「風月常新」(男女の情愛は常に新しい、という意)の四文字を刻印され、そこに桂紅膏(赤色のクリーム)を塗られたので、水洗いしても色があせなかった。また穆宗は黒い絹布の上に白色の文字を書き、また白い絹布に黒色の文字を書き、合せて衣服をつくって「寵愛を受けた」宮女に下賜した。その衣服に書かれた文字はすべて見るに耐えない卑摂な言葉であり、人々はこれを「渾衣」(ざれごとを書いた衣)と呼んだ(馮贅『雲伯雑記』巻五、七)。これらは風流のようにも見えるが、実際は宮女を玩具にし、人格を踏みにじったことの明らかな証拠である。
さらに不幸なのは、亡き皇帝の霊の弔いを命ぜられた「奉陵宮人」とか、「陵園妾」とか呼ばれる女性であった。唐朝の制度では「およそ皇帝の崩御にあたっては、子の無い宮女は悉く山陵に遣わし、朝な夕な、洗面用具を揃え、夜具を整えて、あたかも生者に仕えるように死者に仕えさせた」(『資治通鑑』巻二四九、宣宗大中十二年、胡三省注)。この他、各種の罪に対する罰として陵園(皇帝の御陵園地)に入れられた宮女もいた。いわゆる「潅に因りて罪を得 陵に配され来たりし」(白居易「陵園妾」)者であった。宣宗は即位すると、穆宗の宮人をすべて各地の陵園に押し込んでしまった。宣宗は穆宗を憎んでいたので、宮人たちも一緒に罰したのである。「山宮一たび閉ざされて開く日無く、未だ死せざれば此の身をして出でしめず」であり、「顔色は花の如く命は葉の如し」(白居易「陵園妾」)であったこれらの宮人は、半生を陰惨でもの寂しい陵墓に、自ら墓に入るその日までずっとお仕えしなければならなかった。
2017年5月16日 |
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二-2 后 妃 (優雅と残酷な生存競争)
彼女たちは皇帝の妻妾であり、錦衣を着て山海の珍味を食し、ひとたび呼ばわれば百人の下婢が答える、最も高貴にして最も権勢の高い人々であった。しかし、その運命は逆にまた最も不安定であり、いつでも天国から地獄に堕ち、甚だしい場合には「女禍」の罪名を負わされ犠牲の羊にされた。
* 女禍とは君主が女色に迷い、国事を誤ったため引き起された禍い。
1 内職、冊封
古来、宮中にはいわゆる「内職」という制度があった。『礼記』「昏義」に、「古、天子は、后に六宮、三夫人、九嬢、二十七世婦、八十一御妻を立て、以て天下の内治を聴く」とある。唐初の武徳年間(618年 - 626年)に、唐は隋の制度を参照して完璧で精密な「内官」制度をつくった。その規定では、皇后一人、その下に四人の妃(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃各一人)、以下順位を追って、九嬢(昭儀、昭容、昭媛、修儀、修容、修媛、充儀、充容、充媛各一人)、捷好九人、美人九人、才人九人、宝林二十七人、御女二十七人、采女二十七人が配置される。上記のそれぞれの女性は官品をもち、合計で122人の多きに達した。皇后だけが正妻であり、その他は名義上はみな「妃嬪」-皇帝の妾とされた。
また、皇太子の東宮にも「内官」があり、太子妃一人、その下に良俤、良媛、承徽、昭訓、奉儀などの品級があった。諸親王の王妃の下にも儒人等の腰妾の身分があった。
唐代三百年間に封ぜられた后妃のうち、皇后と地位が比較的高いか、あるいは男子を生んだ妃蹟だけが史書にいささかの痰跡を残した。その他の女性は消え去って名も知れない。『新・旧唐書』
「后妃伝」には、全部で二十六人の皇后、十人の妃娘が記載されている。その他で史書に名を留めているものはおよそ五、六十人である。その内、高祖、玄宗両時代の人が最も多い。高祖には賓皇后の他に、万貴妃、尹徳妃、宇文昭儀、莫嬢、孫嬢、崔嬢、楊嬢、小楊娘、張捷好、郭捷好、劉捷好、楊美人、張美人、王才人、魯才人、張宝林、柳宝林などがいた。玄宗には王皇后、楊皇后、武恵妃、楊貴妃、趙麓妃、劉華妃、銭妃、皇甫徳儀、郭順儀、武賢儀、董芳儀、高捷好、柳捷好、鍾美人、盧美人、王美人、杜美人、劉才人、陳才人、鄭才人、閣才人、常才人などがいた。もちろん史書に名を残せなかった人はさらに多い。史書の記載から見ると、高祖、玄宗両時代の妃嬢がたしかに最も多かったようである。
唐代の皇帝たちは、後宮の女性を選抜したり寵愛したりするのに、あまり尊卑貴賤を気にかけなかったが、彼女たちに地位・晶級を賜る時には家柄をたいへん重視した。とりわけ皇后に立てる時
には絶対に家柄が高貴でなければならず、「天下の名族を厳選」しなければならなかった(『資治通鑑』巻一九九、高宗永徽六年)。漢代に歌妓の衛子夫(武帝の皇后。もと武帝の姉の歌妓)や舞妓の趙飛燕(成帝
の皇后。もと身なし児で歌妓)が皇后になったようなことは、唐代には完仝に跡を絶った。后妃に封ずる時は、まず「地冑清華」(家柄の高貴)、「軒尼之族」(貴顕なる名族)等々の出身であることが強調され、その次にやっと徳行が問われた。
唐代の記録にある二十六人の皇后の内、死後追贈された人、あるいは息子の即位によって尊ばれて太后に封ぜられた人、こうした若干の例外を除く他の大多数の皇后は、その時代の高官か名門の家柄の出であり、そのうちのハ人はやはり皇族の出身であった。時に皇帝が家柄などにそう拘泥しないこともあったが、しかし大臣たちが家柄を最も有力な理由にして反対したので、皇帝でさえどうすることもできなかった。武則天の父は若い頃商人であったが、娃国後に高い地位に上り、格の低い名もなき家柄とはいえなかったけれども、武則天を皇后に立てることに反対した大臣たちはやはり、彼女の「門地は、実に微賤である」と攻撃した(『資治通鑑』巻二〇三、則天后光宅元年)。一方、高宗が努めて衆議を排して披女を皇后にしようと議した時にも、また懸命になって「家門は勲庸(勲功)著しい」とか、「地位は綴敵(冠帯と印綬)ともに華である」(『資治通鑑』巻二〇〇、永徽六年)などと強調した。武宗の王賢妃はたいへんな寵愛を受け、また武宗が即位する際に大きな功績もあったので、武宗は彼女を皇后にしようとした。しかし、大臣たちは「子が無く、また家柄も高貴ではない。恐らく天下の議を胎すことになろう」といって反対したので、ついに出身が下賤ということで皇后にできなかった。皇帝でさえ名門の女性を皇后に立てるという原則に逆らえなかったことが分かる。
名門出身という、この資本がなかったならば、たとえ皇帝の寵愛をほしいままにしたり、皇子を早く生んだとしても、ただ死後に称号を追贈されるか、子が即位して始めて正式に太后になることが許されたのである。唐代の皇后の内、四、五人は低い家柄の出身であった。たとえば、粛宗の呉后は、罪人の家族として宮中の下婢にされた人であり、憲宗の鄭后、穆宗の蕭后はともに侍女の出であり、両者とも生んだ子が即位して始めて尊ばれて太后になることができた。
皇后を立てることに比べて、妃嬢を立てることはわりあい簡単であり、家柄はそれほど厳格に間題にされることはなかった。彼女たちの大半は皇子を生むか、あるいは寵愛を受けたために妃娘の晶階を賜った者であったから、その中には身分の低い者もいくらか含まれていた。たとえば、玄宗の趙麓妃は歌妓の出身であった。そうした例もあるが、しかし妃娘でも出身、家柄はやはり大切であった。太宗の楊妃は隋の場帝の娘であったから、「地位と名望が高く、内外の人々が皆注目した」(『新唐書』太宗諸子伝)。玄宗の柳捷好は名門大族の娘であり、玄宗は「その名家を重んじて」(『新唐書』十一宗諸子伝)特別な礼遇を与えた。
美人が雲のごとく集まっている後宮において、家柄は一頭地を抜くために必要な第一の跳躍台であった。
2 高貴、優雅な生活
后妃たちの生活は富貴であり、また贅沢でもあった。彼女たちは衣食の心配の必要はなく、内庫(宮中の資材課)が必要なもの一切を支給した。「唐の法は北周、隋の法を踏襲し、妃娘、女官には地位に尊卑があったから、その晶階によって衣服、化粧の費用を支給した」(『旧唐書』王鋲伝)。唐初以来、国庫が日に日に豊かになると、后妃たちの生活もそれに応じて贅沢になった。玄宗の代になると宮中の生活が贅沢になりすぎたので、皇帝は宮中にあった珠玉宝石、錦誘を焼き捨て、また宮中の衣服を専門に供する織錦坊を閉鎖したことがあった。しかし、いくばくもなく開元の盛世が到来すると、玄宗も初志を全く翻したので、宮中生活はまた華美に復した。玄宗は寵愛した妃娘に大登の褒美を与えた。王鋲は、毎年百億にものぼる銭、宝貨を皇室に寄進し、専ら玄宗が妃嬉に賜る恩賞の費用とした。そして「三千の寵愛、一身に在り」と称された楊貴妃は、さらに一層贅沢の限りを尽したので、宮中にいた七百人の織物職人が専門に彼女のために刺繍をし、また他に数百人の工芸職人が彼女の調度品を専門に制作していた。また、楊貴妃は荔枝が好きだったので、玄宗は万金を費やすのを惜しまず、昼夜駅伝の馬を走らせ、葛枝を蜀(四川)より長安に運ばせた。詩人杜牧はそれを風刺し、「一騎 紅塵 妃子笑う、人の是れ荊枝来るを知る無し」(「華清宮に過る絶句」)と詠じた。
后妃たちの生活は優閑かつ安逸なもので、終日飽食し何もしないで遊びくらした。もちろん、時には彼女たちも形ばかりの仕事をしなければならなかった。たとえば恒例となっている皇后の養蚕の儀式や六宮(皇后の宮殿)での繭を献ずる儀式を主催し参加することーこれは天下の婦女に率先して養蚕事業の範を示すことを意味していた。玄宗の時代、帝は彼女たちに自ら養蚕をするよう命じ「女が専門にすべき仕事を知らしめようとした」ことがあった(『資治通鑑』巻二言一、玄宗開元十五年)。しかし、この仕事も当然ながら身分の賤しい宮女たちに押し付けられたはずであり、本当に彼女たちを働かせることにはならなかったに相違ない。この他にも、また祭祀、帝陵参拝、宴会等の儀式にも参加しなければならなかった。『唐六典』の内官制度の規定によると、后妃たちにも職務が決められていた。妃嬢は皇后を補佐し、「坐して婦礼を論じ」、「内廷に在って万事を統御する」、六儀(後宮にある六つの官庁)は「九御(天子に奉侍する女官たち)に四徳(婦徳・婦言・婦容・婦功)を教え、傘下の婦人を率いて皇后の儀礼を讃え導く」、美人は「女官を率いて祭礼接客の事を修める」、才人は「宴会、寝所の世話を司り、糸棄のことを理め、その年の収穫を帝に献じる」等々。しかしながら、これらの仕事も大半は形式的なもので、なんら実際の労働ではなかった。形式的な「公職」以外で、彼女たちの生活の最も重要なことは、言うまでもなく皇帝の側に侍り、外出の御供をすることであった。彼女たち自身の私的な生活はと言えば、ただいろいろな娯楽、遊戯を思いついては日時をすごし、いかにして孤独と退屈をまぎらわすかということに尽きる。「内庭の嬢妃は毎年春になると、宮中に三人、五人と集まり、戯れに金銭を投げ表裏を当てて遊んだ。これは孤独と苦悶の憂さを晴らすためであった」、「毎年秋になると、宮中の妃妾たちは、美しい金製の小聶に妨姉を捉えて閉じ込め、夜枕辺に置いて、その鳴き声を聴いた」(王仁裕『開元天宝遺事』巻古。これらが彼女たちの優閑無聊の生活と娯楽や気晴らしのち。っとした描写である。
3 不幸な運命、感情の飢渇
富貴、栄達、優閑、快適-彼女たちは、こうした人の世のすべての栄耀栄華を味わい尽したのであるから、唐代に生きた多くの女性たちの中では幸運な人々といわざるをえない。しかしながら、彼女たちにもまた彼女たちなりの不幸があった。彼女たちの運命は極めて不安定であり、一般の民間の女性に比べると、より自分の運命を自分で決める力がなかった。なぜなら、彼女たちの運命はきわめて政治情勢の衝撃を受けやすかったからであり、またその運命は最高権カ者の一時の寵愛にすべてに係っていたからである。
『新・旧唐書』の「后妃伝」に記載されている三十六人の后妃のうち、意外なことに十五人は非命の最期をとげている。二人は後宮で皇帝の寵愛を争って死に、二人は勣乱のなかで行方不明となり、一人は皇帝の死に殉じて自殺し、一人は皇太后として皇帝から罪を問われて死んだ。その他の九人はすべて政治闘争、宮廷政変で死に、そのうちの三人は朝廷の政治に関与して政敵に殺され、残りの六人は罪もないのに政争の犠牲となった。
后妃たちにとって、最も恐ろしいことはまず第一に政治権力をめぐる闘争であった。彼女たちはしばしば仝く理由もなく政治事件の被害に遭ったり、家族の罪に連坐させられたり、甚だしい場合には殺害されるという災難にあった。ここで人々はまず楊貴妃のことを最初に想い浮かべることであろう。複雑な政治闘争、権力闘争の角逐の中で、いまだ政治に関与したことのなかったこの女性は、玄宗皇帝が披女に夢中になり、また彼女の家族を特別に厚遇したということだけで、君主を迷わし国を誤らせ禍をもたらした罪魁となり、最後には無残にも柿め殺されたうえ、千古に残る悪名を背負わされ、正真正銘の生け賛の小羊となった。
唐代に、このような悲劇が決して他になかったわけではない。中宗の趙皇后(死後に皇后の称号を追贈)は王妃となった時、母親の常楽長公主と武則天の間に抗争が起ったため、内侍省(宮中に在る宦官管理の一役所)に拘禁された。毎日窓から生のままの食事を少し与えられただけで、世話する人もいなかった。数日後、衛士が中で死んでいるのを発見したとき、死体はすでに腐乱していた。春宗の賓后と劉后は人から無実の罪に陥れられ、武則天の命で、同じ日に秘密裏に殺され、死体は行方知れずになった。粛宗が皇太子だった時、章妃は長兄が罪により死を賜ったため粛宗と離婚を余儀なくされた。以後彼女は宮中で尼僧となって終生灯明古仏を伴としてくらした。唐末、昭宗の何皇后の最後はさらに悲惨で、昭宗が朱仝忠に殺された後、罪を栓造されて締め殺され、王朝交替の犠牲者となった。
彼女たちの第二の脅威は、皇帝の寵愛を失うことに外ならない。大多数の后妃と皇帝との結婚は、事実上政略結婚であり、もともと皇帝の愛情を得たのではなかった。何人かの后妃は容姿と技芸の才能によって、あるいは皇帝と穀難を共にしたことによっ≒寵愛を受けた。しかし、いったん時が移り状況が変化したり、また年をとってくると、容色が衰えて寵愛が薄れるという例えどおり、佳人、麓人が無数にいる宮廷で自分の地位を保持することはきわめて難しかった。王皇后と玄宗は敷難を共にした夫婦であり、彼女は玄宗が行った章后打倒の政変に参与した。しかし武恵妃が寵愛を一身に集めた後には、しだいに冷遇されるようになった。彼女は皇帝に泣いて訴え、昔敷難を共にした時の情愛を想い出してほしいと願った。玄宗は一時はそれに感動したが、結局やはり彼女を廃して庶民の身分に落してしまった。境遇がち太っとマシな者だと、后妃の名が残される場合もあったが、それ以後愛情は失われ、後半生を孤独と寂寞の中に耐え忍ばねばならなかった。また、彼女たちの運命は、ぴどい場合は完全に皇帝の一時的な喜怒哀楽によって決められた。武宗はかつて一人の妃娘に非常に腹を立てたことがあった。その場に学士の柳公権がいたので、皇帝は彼に「もし学士が詩を一篇作ってくれるなら、彼女を許してやろう」といった。柳公権が絶句を一首つくると、武宗はたいそう喜び、彼女はこの災錐を逃れることができた(王定保『唐植言』巻一三)。しかし、皇帝から廃されたり、冷遇されただけの者は、まだ不幸中の幸いであったように思う。最悪の場合は生命の危険さえあった。高宗の王皇后と蕭淑妃の二人は、武則天と寵愛を争って一敗地に塗れた。この二人の敗北者は新皇后の階下の囚人となり、それぞれ二百回も杖で打たれてから乎足を切断され、酒瓶の中に閉じ込められた後、無惨に殺された。
后妃にとって、最後の脅威は皇帝の死去である。これは皇帝の付属品である后妃たちが、いっさいの地位と栄誉の拠り所を失うことを意味した。一つだけ例外がある。つまり子が皇帝に即位した場合で、「やんごとなき夫の妻」から、「やんごとなき子の母」へと転じることができた。少なくとも子のある妃娘はち太っとした地位を保つことができたが、子のない妃嬉たちは武則天のように仏寺に送られて尼にされるか、あるいは寂しく落ちぶれて後宮の中で生涯を終えた。たとえ太后という至尊の地位に登っても、新皇帝の顔色を窺わねばならなかった。憲宗の郭皇后は郭子儀の孫娘にあたり、公主を母に持ち、また穆宗の母となり、敬宗、文宗、武宗の三皇帝の祖母にあたる女性であったから、人々は唐朝の后妃のなかで「最も高貴」な方と呼んだ。しかし、宣宗が即位(八四七年)すると、生母の鄭太后はもともと郭太后の侍女であり、かねてから怨みをもっていたため、郭
太后を礼遇しなかった。それで郭太后は僻々として楽しまず、楼に登って自殺しようとした。宜宗はそれを聞くと非常に怒った。郭太后はその夜急に死んでしまったが、死因はいうまでもなく明らかであろう。
唐代の后妃のなかには、そのほか皇帝に殉死したという特別な例がある。それは武宗の王賢妃である。彼女はもとは才人の身分であり、歌舞をよくし、皇帝からたいへんな寵愛を受けた。武宗は危篤間近になると、彼女に「朕が死んだらお前はどうするのか」と問うた。すると彼女は「陛下に御供して九泉にまいりたいと思います」と答えた。すると武宗は布を彼女に与えたので、王才人は帳の下で首をくくって死んだ(『資治通鑑』巻二四八、武宗会昌六年)。次の宣宗が即位すると、彼女に「賢妃」を追贈し、その貞節を誉め讃えた。このようにして、一個の生きた肉体が「賢妃」という虚名と取り換えられたのである。
もし、予測のつかない未来と苦難の多い運命によって生みだされる不安な感情が、后妃たちの生活の普通の心理であったとするなら、もう一つ彼女たちにまとわりついているのは、心の慰めや家庭の暖かさが欠けていることによって深く感ずる孤独、寂寥、哀怨の気持であった。次のようにも言うことができよう。彼女たちは物質的には豊かであったが、人間の情愛の面では貧しかったと。寵愛を失った者は言うまでもないが、寵愛を受けている者でさえも、何万にものぼる女性が一人の男性に侍っている宮中においては、誰も皇帝の愛情をいつまでも一身に繋ぎとめておくことは不可能であり、また正常な夫婦生活と家族団秦の楽しみを味わうことも不可能であった。皇帝が訪れることもなくなって、零落してしまった后妃の場合、おのずから悲痛はさらに倍加した。
玄宗の時代、妃娘がはなはだ多かったので、「妃嬢たちに美しい花を挿すよう競わせ、帝は自ら白蝶を捕えて放ち、蝶のとまった妃娘のところに赴いた」。また、妃娘たちは常に「銭を投げて帝の寝所に誰が侍るのかを賭けた」(『開元天宝遺事』巻上、下)。彼女たちの苦痛を想像することができる。「長門(妃娘の住む宮殿)閉ざし定まりて生を求めず、頭花を焼却し筝を卸却す。玉窓に病臥す 秋雨の下、遥かに聞く別院にて人を喚ぶ声」(王娃「長門」)、「早に雨露の翻って相い誤るを知らば、只ら刑の奴を挿して匹夫に嫁したるに」(劉得仁「長門怨」)、「珊瑚の枕上に千行の涙、是れ君を思うにあらず 是れ君を恨むなり」(李紳「長門怨」)等々と詩人に描写されている。唐代の人は「宮怨」「捷好怨」「長門怨」「昭陽怨」などの類の詩詞を大量に作っており、その大半は詩人が后妃になぞらえて作ったものであるが、じつに的確に后妃たちの苦悶と幽怨の気持とを表している。これらの作晶を貴婦人たちの有りもしない苦しみの表現と見なすべきではない。これらには披女たちの、宮中での不自然な夫婦生活に対する怨み、民間の普通の夫婦に対する憧れがよく表現されている。女性として彼女たちが抱く怨恨と憧憬は、自然の情に合い理にかなっている。
4 残酷な生存競争
日常的に危険と不安が潜伏している後宮のなかで、気の弱い者、能力のない者は、ただ唯々諾々と運命に翻弄されるしかなかった。しかし、ち太っと勇敢な者は、他人から運命を左右されることに甘んぜず、自分の力をもって自分の運命を支配し変革しようとし、さらに進んでは他人をも支配しようとした。これは高い身分にいることから激発される権力欲ばかりではなかった。彼女たちの特殊な生活環境もまた、彼女たちを一場の激しい「生存競争」の只中に投げ入れずにはおかなかったのである。武則天、中宗の章后、粛宗の張后などは、后妃が政治に関与した例であり、彼女たちの政治活動とその成功失敗については、「女性と政治」(第三章第三節)で詳しく述べることにする。 皇帝の寵愛を失う恐怖があるからこそ、人は様々な乎段を講じて寵愛をつなぎとめたり、寵愛を奪いとろうとした。後宮における寵愛をめぐる最も残酷な一場の闘争は、武則天、王皇后、蕭淑妃の間で行われた。王皇后は皇帝の寵愛もなく、また子もなかったので、寵愛を一身に受ける蕭淑妃を嫉妬して張り合った。彼女は高宗がかつて武則天と情を通じていたことを知ると、策略をめぐらし、感業寺の尼になっていた武則天に蓄髪させて再び宮中に入れ、蕭淑妃の寵愛を奪わせようとした。宮中に入ったはじめのうちは武則天もへりくだって恭しくしていたが、いったん帝の寵愛を得ると、この二人の競争相手に対抗し始めた。王皇后を廃するために武則天は自分の生んだ女の子を柿め殺し、その罪を皇后にかぶせることもいとわなかった。最終的に武則天はさまざまな計略と手段をもって徹底的に競争相手を打ち破って皇后になり、王、蕭の二人は悲惨な末路をたどった。蕭淑妃は処刑される時、武則天を激しく呪い、「願わくば来世は猫に生れ、武氏を鼠にして、世々代々その喉笛にくらいつき仇を討ちたい」といった。後宮の競争の激しさは人を慄然とさせる。こうした競争は王后、蕭妃が起したものではないし、また武則天だけを咎めることもできない。それはじつに後宮のなかで極限にまで発展した、一夫多妻制度がもたらした産物であった。政治と権力が彼女たちの争いを発酵させ針らませたのであり、その激烈さは普通の家庭の妻と妾の争いを遥かに越えるものとなった。
皇帝がひとたび崩御すると、后妃たちの財産、生命、地位はたちまち何の保障もなくなるので、早くから考えをめぐらせた人たちもいた。男千を生んだ后妃は、いうまでもなくあらゆる于段を講じてわが子を皇太子にし、その貴い子の母たる地位を手に入れようとした。こうして跡継ぎを決めることも、后妃たちの激しい競争となった。玄宗はすでに趙麗妃の生んだ子を皇太子にしていたが、武恵妃が玄宗の寵愛を受けるようになると、現皇太子の位を奪って我が子寿王を皇太子に立てようと両策した。まず彼女は皇太子を廃するため罠をしかけて、ズ名中に賊が出た〃と言って皇太子と二人の王子に鎧を着て来させ、その後で玄宗に三人が謀反を起したと告げた。それで、太子と二人の王予は処刑された。男子のない后妃、あっても皇太子になる望みのない后妃は別に出路を求め、皇太子かその他の皇子たちにとりいって自己の安全を図ったのである。高祖李淵が晩年に寵愛した尹徳妃、張姥好などは子がなかったり、あっても幼かったので、すでに勢力をもっている他の何人かの皇子と争うことはたいへん難しかった。そこで彼女たちは皇太子の李建成と互いに結びあい、利用しあって娃成の即位を助け、高祖の死後のわれとわが子の不測の運命にそなえたのである。
后妃たちは表面的には高貴で優閑な生活を送っていたが、裏では緊張に満ちた活動をしており、それは彼女たちの別の生活の大きな部分をなしていた。こうした様々な手段は決して公明正大なものとはいえない。しかし、政治の変動と後宮の生活が彼女たちにもたらす残酷無情な状況を見るならば、そしてまた天下の母の鏡と尊ばれながら、じつは常に他人に運命を翻弄され、吉凶も保障し難い境遇にあったことを考えるならば、彼女たちが自分の運命を変えようと少しあがいたからといって、どうして厳しく責めることができよう。
2017年5月15日 |
の紀頌之5つの校注Blog |
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10年のBLOGの集大成 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」、現在、李白詩全詩 訳注 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
745-004 a.【字解集】秋夜與劉碭山泛宴喜亭池 b.古風五十九首之二十二 c.情寄從弟邠州長史昭 d.草創大還贈柳官迪 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之8705 |
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Ⅱ韓昌黎詩集・文集校注 |
806年-82 先生-巻八-01城南聯句【案:韓愈、孟郊】【案:此首又見張籍集。】 Ⅱ漢文委員会kanbuniinkai紀頌之韓愈詩集8706 |
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Ⅲ 杜詩 |
詳注 |
767年-115 君不見簡蘇徯 杜詩詳注(卷一八(四)一五九六)Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8713 |
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●これまで分割して掲載した詩を一括して掲載・改訂掲載・特集 不遇であった詩人だがきめの細やかな山水詩をかいている。花間集連載開始。 |
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漢・唐・宋詞 |
花間集 訳注解説 (190)回目牛嶠二十六首《巻四19菩薩蠻七首其五》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ8708 (05/14) |
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Ⅵ唐代女性論ブログ |
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はじめに
果てのない長い夜、あばらやに住む貧しい女は、織機の前で夜もすがら披を動かし手を休めず働くが、宮府の税の催促に悲しみで腸がちぎれそうだ。後宮の美人は珊瑚の枕の上でたえず寝返りをっち、天子の寵愛の衰えたことに悲しみの涙を流す。同じ女でも身分、地位が異なり、彼女たちの生活、境遇、感情、心理もそれぞれ異なる。唐代の女性を理解しようとすれば、まず各階層の女性たちの生活状況をそれぞれ観察しなければならない。
唐代三百年間の女性の人数を正確に測る方法はない。しかしある時期の人数はだいたい計算できる。記録によると、唐代の最大の人ロは天宝十三載(七五四年)の五二八八万四八八人であり、この数字で計算すれば、半分が女性と仮定した場合、女性が最も多かった時、二千六百余万人に達したことになる。
二千数百万人の女性は、それぞれ異なった階層に属していた。披女たちはおよそ次の十種に分けることができる。一 后妃、二 宮人、三 公主(附郡主・県主)、四 貴族・宦門婦人、五 平民労働婦人、六 商家の婦人、七 妓優、八 姫妾・家妓、九 奴婢、十 女尼・女冠(女道古・女以上である。以下それぞれに分けて彼女たちの生活、心理状態などを述べたいと思う。叙述の都合により、后妃と宮人はまとめて一節に書くことにす二、唐代女性の各階層の状況
二-1 后妃と宮人
一たび深宮の裏に入れば、年年 春を見ず〃
唐の宮人
杜甫はかつて「先帝の侍女八干人」《2099 觀公孫大娘弟子舞劍器行 并序》(公孫大娘が弟子の剣器を舞うを観る示」)と詠い、白居易もまた「後宮の佳麓三干人」(「長恨歌」)と言った。これらは決して詩人の誇張ではなく、唐代の宮廷女性は、実際はこの数字をはるかに越えていた。唐の太宗の時、李百薬は上奏して「無用の宮人は、ややもすれば数万に達する」(『仝唐文し巻一四二、李。白薬「宮人を放っを請うの封事」)といった。『新唐書』の「宦者伝」上に、「開元、天宝中、宮娘はおおよそ四万に至る」と記されている。後者は唐代の宮廷女性の人数に関する最高の具体的な数字であり、まさに盛唐の風流天子玄宗皇帝時代のものである。宋代の人洪邁は、この時期は漢代以来、帝王の妃妾の数が最も多かった時代であるといっている(『容斎五筆』巻三「開元宮噴」)。うまい具合に、この時期の女性の総人ロは先に紹介した数字おそ二千六百余万であるから、四万余人とすれば、じつに仝女性人口の六百分の一を占める。つまり、女性六百人ごとに、人が宮廷に入ったことになる。唐末になり、国土は荒れ、国勢は衰えたが、いぜんとして「六宮(後宮)の貴・賤の女性は一万人を減らない」(『資治通鑑』巻二七三、後唐の荘宗同光三年)という状態だった。この驚くべき数字の陰で、どのくらい多くの「啖夫怨女」(男やもめと未齢の老女)を造り出したことか計り知れない。唐末の詩人曹郡が慨嘆して「天子 美女を好み、夫婦 双を成さず」(「捕漁謡」)と詠ったのも怪しむに足りない。
一 宮中に入る
このように多くの女性はどこから来たのか。またどのようにして宮廷に入ったのか。彼女たちは
だいたい次の四種類に分けられる。
第一種は、礼をもって宮廷に迎え入れられた場合である。この種の人々の大部分は名門貴顕の出身である。たとえば高宗の王皇后、中宗の趙皇后、粛宗の張皇后等の場合、みな皇室の親戚であった。また唐朝の権力者の娘もいた。たとえば憲宗の郭貴妃は尚父郭子儀の孫娘であった。また名門大族の子孫もいた。たとえば太宗の楊妃は隋の場帝の娘であり、玄宗の柳捷好は当時の名族の娘であった。唐の皇室は各種の政治的原因と西晋、東晋以来の門閥観念によって、名族と姻戚関係をもちたいと望んでいたから、彼女たちは特別厚い礼をもって宮中に招かれた。ごく少数であるが、徳と才能と容姿によって宮中にその名を知られ、特別に厚い礼をもって招かれた女性もいた。彼女たちの出身は必ずしも貴顕ではなかったが、大多数は文武百官、あるいは士大夫階級の娘であった。たとえば、太宗の徐賢妃は才能、学識が衆に抜きんでていたので招かれて才人となったが、武則天はと言えば美貌によって招かれて後宮に入っている。こうした部類の女性たちは皇室の特別厚い礼によって招かれた人々であったから、大部分は後宮に入った後、高い位の妃嬢や女官に封じられ、身分はよりいっそう高かった。
* 尚父は父のごとき人という意味の尊号。憲宗は郭子儀をそのように遇した。
第二種は、選抜されて宮廷に入った場合である。この種の女性は必ずしも高貴な家柄の出ではなかったが、しかし大多数は「良家」の出身、つまり一般の官僚あるいは士人の家の出であった。唐朝の諸帝は、前後して何度となく民間の良家の娘を広く選抜して後宮に入れた。唐朝の初め、尚書省は次のように奏上している。「近頃、後宮の女官の選抜に身分の賤しい者どもが選ばれ、礼儀作法がないがしろにされております(侍女や歌姫・舞姫から抜擢された者を指す)。また刑罰や死刑にあった家の女もおりますが、これらは怨恨の積った者たちであります(罪に連坐して後宮に没収された者を指す)。そのため、今後、後宮や東宮(皇太子の宮殿)の女官に欠員が生じた場合は、みな良家の才智と徳行のある女性を当て、礼をもって招聘されますように。また罪人として宮廷に入れられた者や、もともと下賤の家の者はみな補充に当てないようお願いいたします」(『資治通鑑』巻一九五、太宗貞観ナ二年)と。唐の太宗はこの意見を入れ、すすんで「天子自ら良家の娘を選び、東宮の女官に当てた」ことがあった(『資治通鑑』巻一九七、太宗貞観十七年)。
これ以後、唐の歴代の皇帝は、後宮や太子、諸王のために妃を選ぶ時にはぴじーっに家柄を重んじ、常に良家の中から広く娘を選び、「龍子龍孫」(皇帝の子や孫)が下賤の家の女から生れないようにした。玄京皇帝は、皇太子や諸王のために「百官の子女」、「九品官(一品官から九品官に至る官僚)の息女」を選んで宮中に入れた(『全唐文』巻三五、玄宗「皇太子諸王妃を選ぶ勅」、『新唐書』十一宗諸子伝)。文宗は皇太子の妃を選んだとき、百官に「十歳以上の嫡女(正妻の生んだ女子)、妹、姪、孫娘をすべて報告せよ」(『全唐文』巻七四、文宗「皇太子妃を選ぶ勅」)と命じた。荘恪太子(文宗のT、名は李永)のために妃を決める時には、もっぱら「汝州(河南省臨安。洛陽の東南)、鄭州(河南省鄭州)一帯の高貴な身分の家の子女を対象に新婦を求めた」(王浪『唐語林』巻四「蚕羨」)。十数歳に達した「良家の子女」は、この種の選抜をへて多数宮廷に入ったのであるが、彼女たちの中のほんの少しの者だけが幸運を得て妃娘に列し、大多数の者は名もなき宮女のままで生涯を終えたのである。このように良家の子女を選抜するのが、宮廷女性の主要な来源であり、宮廷女性の中で少なからざる比率を占めていた。陳鴻は『長恨歌伝』のなかで、玄宗の時代、宮中の「良家の子は、千を以て数える」といい、蔀調も『劉無双伝』の中で「後宮に選抜された宮娘の多くは衣冠(公卿大夫)の家の子女である」と書いている。
しかしながら、良家の子女の才智徳行あるものを厳格に選択するというのは、主に皇太子、諸王の妃を決める時だけであった。事実、歴代の皇帝は宮女を選別するのに、決してこれほど厳格な規定を持ってはいなかった。皇帝たちは名門の令嬢でも、貧しい家の娘でも、はては娼妓、俳優などの賤しい女たちであろうとも、ただ容姿、技芸が衆に抜きんでていれば、一様に選んで宮廷に入れたのであった。玄宗は、かつて「花鳥使」なる役人を四方に派遣して密かに美人をさがさせたが、家柄や才能、徳行などは必ずしも問題にしなかったようである。その他、唐の宮中には教坊などの役所があり、皇族の耳目を楽しませる多数の宮妓を専門に養成していた。この教坊もしばしば民間で女性を選抜した。たとえば憲宗の時、教坊は「密旨だとして良家の子女、及び衣冠の族の別宅の妓人を取り上げた」(『旧唐書』李綺伝)。宮妓を選抜するにはただ容姿、技芸を見るだけであったから、良家の出か、才智徳行がどうかは問題にしなかった。
古来、自分の青春と自由を、移り気で定かならぬ皇帝の寵愛ごときと取り換えようなどと思う女性はいくらもいなかったし、また自分の娘を世間から隔絶したそんな所に送ろうとする父母もほとんどいるわけはなかった。それで、ひとたび宮女を選抜するという話があれば、朝野、貴賤を問わず人々はみな恐怖におののいた。そのため、玄宗、文宗の両皇帝は宮女の選抜をやめざるを得なかった。元桐は民間の娘を選抜する状況を「上陽の白髪の人」なる詩で、次のように描写している。美女の選抜の任に当たる花鳥使たちは、「懐に墨詔を満たして嬢御を求め、……酔い醗にして直
ちに卿士の家に入れば、閑閔のひとは倫かに週避するを得ず。良人は妾を顧みて死別と心ぎめ、少女は爺を呼んで血もて涙を垂らす。十中一は更衣を得ること有るも、九は深宮に配されて宮婢と
作る」と。
第三種は、宮中に献上された女性である。この種の人々には様々なタイプがあったが、大半は美貌か技芸の才によって献上された女性であった。いくらかの朝臣は自分の出世のために妻や娘を宮中に入れることを常に願った。たとえば、秘書官の鄭普思は、娘を中宗の後宮に献上したので弾劾を受けたことがあった(『資治通鑑』巻二〇八、中宗神龍二年)。崔混はさらに恥知らずにも美貌の妻と娘を一緒に皇太子の宮中に献上し、高官になることができた。そのため、「艶婦を春宮(皇太子の宮殿)に進めた」と世間から機られた(『太平広記』巻二四〇)。こうした例よりもさらに多かったのは、皇族、大臣や藩鎖(節度使)などが民間の美人を捜し出して猷上した事例である。順宗の時、昇平公主は女ロ(奴婢とされた女)十五人を献上した(『旧唐書』憲宗紀。ちなみに『新唐書』諸帝公主伝では「女伎を献ず」に作る)。敬宗の時、帝は特に「公主、郡主は決して女口を献上してはならないと命じた」(『旧唐書』敬宗紀)ことがある。「女口を進める」ことがすでに風習になっていたことが分かる。唐朝後期には藩鎭の大半が入朝の際にも女口を献上しようとし、于頔、韓弘は歌舞妓、女楽(楽器を奏でる妓女)を献上した。こうした女口たちの中には娼優(娼妓、俳優)や個人が所有する家妓・姫妾、それに若干の名もなき民家の娘も含まれていた。
第四種は、罪人の家の女性で宮廷の婢にされたものである。これらの大多数は、官僚士大夫層の女性であった。唐律の規定では、「籍没」といって謀反および大逆罪を犯した官僚士大夫層の家族(母、娘、妻、妾、子孫を含む)と奴婢は、みな後宮に入れて官奴婢にすることになっていた。つまり「技芸に巧みな者は後宮に入れる」(『唐六典』巻六、刑部都官)と定めていた。そして、無能な者は司農寺(銭穀のことを司る官庁)等の官庁に配属して官奴婢とし、後宮に入れられた者の一部分は宮女とした。著名な宮廷の才女となった上官婉児は、祖父の罪に連坐し、まだおむつを着けている時、母とともに宮廷に没収された女性である。その他、たとえば太宗の時代の廬江王の姫妾、粛宗の時代の外国人将軍阿布思の妻、唐の後期の藩鎮呉元済と李鋳の妻、娘、婢妾等は、みな夫や父、あるいは主人が洙殺されたため後宮の婢にされた人々であった。また、その他の原因により、連坐して後宮に没収された者、たとえば裴珪の妾趙氏載』巻一)彼女は姦通罪を犯して後宮に没収された(『朝野倉のような女性もいたのである。玄宗は百官たちの側室のうちの「別宅婦」(正式な婚姻関係のない妾)を宮中に没収し懲戒の意を示したことがあった(『仝唐文』巻二I、玄宗「別宅婦人を畜うるを禁ずる制」)。罪に連坐して没収された女性は宮廷女性のなかでも決して少なくはなかった。彼女たちの身分は官婢であったが、後に様々な機縁によって幸運をつかんだ者もいた。たとえば玄宗は、連坐して宮中に没収された官僚士大夫層出身の女性五人を選んで皇太子に賜ったが、そのうちの一人は後に皇后になった。しかし全体的にいえば、この部類に属する人々の身分は最も下賤であり、彼女たちの心もまた深い悲しみと苦しみに満ちていたのである。
以上をまとめてみると、唐の宮廷女性は四種の主な方法、招聘、選抜、献上、連坐によって調達されていたことが分かる。彼女たちの中には、名門貴族、官僚士大夫層の娘のみならず、また少数ながら娼妓、俳優、婢妾など下賤な身分に属する者もいた。罪没される者は比較的特殊な例であったが、これ以外の女性たちはあるいは家柄、あるいは才智と徳行、あるいは容姿、あるいは技芸によって宮中に選抜された人々であり、以上の四つが彼女たちが宮廷に入る主要な道であった。そして彼女たちの大半は十三、四歳の少女であった。
これら数干、数万の宮廷女性のなかで、幸運にも后妃となり皇帝の正式な妻、もしくは妾の地位をつかんだ者はほんの少数であった。まずそうした少数の幸運なる女性から見てゆこうと思う。
2017年5月14日 |
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Ⅰ李白詩 |
(李白集校注) |
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一、唐代女性論、社会状況
次のように言うことができるだろうか、
『彼女たちは中国古代の女性たちの中の幸運な人々であった』と。
唐代の女性たちの中で、これまで人々から忘れ去られることのなかった人物は一人だけだろう。それこそ中国史上「前に古人を見ず、後に来者を見ず」(唐の詩人「陳子昂」の句)と称された女性皇帝武則天(則天武后)である。たとえあなたが彼女を讃美しようと憎悪しようと、彼女を歴史から抹殺することはできない。まず彼女のことから話を始めようと思う。
古代中国において、后妃(皇后と妃娘)が政治を勤かすのはもともと稀なことではなかった。彼女たちは幼主を抱いて簾の奥で政権を握ったり、あるいは皇帝を利用して寝物語に政局を左右したりした。すなわち、唐代以前には秦の宜太后、前漢の呂后・賓后・王后、後漢の馬后・郵后など六人の皇后、西晋の庚后・袷后、北朝の馮后・胡后・婁后、隋朝の独孤后などがいた。唐代以後には、北宋の劉后・曹后・高后・向后・孟后、南宋の楊后・謝后、明朝の張后、清朝の慈安(東太后)・慈禧(西太后)の両太后などがいる。
彼女たちはみなことごとく政治に介人し、甚だしい場合は政権を一人で牛耳り、古代史上、皇帝の冠を戴かない女性の統治者となった。しかしながら、彼女たちは大権を掌握したとはいえ、自分の傀儡(夫や子である皇帝)を押しのけて、皇帝に隷属する后妃の身分を変えてしまうようなことは決してしなかった。武則天は唯一の例外である。ただ彼女だけが公然と簾の奥から躍り出し、堂々と真の女帝になったのである。唐代人の筆になった、ある「宜都の内人(宮人)」は、次のように彼女を称讃している。「古には女神の女蝸がいたものの、これはれっきとした天子ではなく、伏磯が九州(仝国古を治めるのを于助けしただけだった。また後世、閑房をとびだして天下のことを裁決した女性も出たが、みな正統な地位を得たのではなく、愚かな主人を補佐するか、あるいは幼い皇帝となったわが子を抱いて権力を振ったにすぎない。ただ。天子さまこ武則天)だけは、天の姓を革め、唇と腕環を取り去って帝冠を戴き、璃祥も日ごとに現われ、大臣もそれをどうにもできないという真の天子になられたのである」(『全唐文』巻七八〇、李商隠「宜都内人」)。
一説によれば、この「真の天子」は、容姿端麗であったため、十四歳の時、唐の太宗の後宮に召されて「才人」という妃嬪の一身分を与えられ、「武媚」という号を賜った。しかし、太宗の死後、尼寺に追われて尼僧にされた。ところが、武媚は早くから皇太子の李治と恋仲であったため、彼が即位して高宗となった後、尼寺で再会するや二人は旧情にかられ、向い合って泣いてやまなかった。かくして、武則天は再び召されて後宮に入り妃娘となったのである。
このもともと智謀にたけ、また文学、歴史の教養を兼ね備えた女性は、まず後宮において皇帝の寵愛を争うため様々な策謀をめぐらせ、恋敵を倒して皇后にのし上がった。その後、高宗が病にかかり、彼女が朝政を代行すると、なんと「事を処置してすべて天子の御意に叶い」、これ以後「政治には大小となく、みな天子とともに携わり」、次第に「天下の大権はことごとく皇后に帰し、官僚の任免、処罰や生殺与奪の権はすべて彼女のロから決せられるようになり」、天子はただ「手をこまねいて眺めるだけとなった」(『資治通鑑』巻二〇〇、高宗顕慶五年、同巻二〇一、高宗麟徳元年)。 高宗の死後、彼女はあいついで二人の息子を皇帝に立てたが、その後すぐに彼らを廃し、ついには歴史に前例のない第一歩を踏み出して、唐の命を革めて「周」とし、正式の開国の皇帝となった。彼女は中国政治史上の一つの奇跡をつくりだしたのである。
この奇跡とそれを生みだした人物が唐代に出現したことは偶然であろうか。たぶんいくらかは偶然であろう。筆者は次のように考えてみた。もし高宗が父太宗の在位中に武則天と親しく知り合わなかったならば、もし後に高宗が武則天を尼寺に置き去りにして再び旧情を温めることがなかったならば、もし高宗が病気にならず、また武則天に政治を任せようと思わなかったならば、また、もし武則天がこのように才能のある女性でなく、あるいはもともと皇帝になろうなどという気持をもったりしなかったならば、等々の場合には、おそらく中国史上にこのような女帝が出現する可能性は仝くなかったであろう。しかしながら、さらにもっと根本にまで原因を探ってみると、かえって私たちは偶然のように見える原因のなかに、いくらかの全くの偶然とはいえない要素がどうやら含まれていることを発見するのである。また次のようにも考えてみる。なぜ高宗は父皇帝の妃嬢と恋愛関係を持てたのであろうか。また、なぜ高宗はこともあろうに父皇帝の「未亡人」を再び後宮に入れ、あろうことか公然と「天下母道の模範」たる皇后に立てることができたのであろうか。なぜ武則天は女に生れたのにあのような政治的才能、教養、強烈にして剛毅な性格をもつことができたのであろうか。なぜ彼女は天下の大悪事を犯し、国号を変え皇帝を称したのであろうか。また、なぜ彼女は史上前例のない女帝の身分をもって朝廷に君臨し、群臣も競って彼女に従い、彼女は打倒されなかったのであろうか。およそこれらのことは、結局はあの唐代という時代の社会風潮と深い関係があるのである。武則天という、この女帝が唐代に出現するのには、深い時代的背景と厚い社会的基盤があったのであり、あるいはまた、唐代の女性仝体が置かれた社会的地位や諸相と密接不可分の関係があったのである。
以下、中国古代社会における唐代の女性の特殊な地位と、そのユニークな姿を観察してみよう。
原始時代の母権制がその歴史的使命を果し、その寿命が尽きた時、「男尊女卑」は誰も疑うことのない人の世の道徳的規範となった。エングルスは『家族私有財産及び国家の起源』において、この歴史的変化について「女性にとって世界史的意義を有する失敗」といった。この失敗はおよそ、逃れられない劫難」であり、これはまた人々にいささかの悲しみを感じさせずにはおかなかった。なぜならそれはずうっと数干年間も続いたのであるから。その時から、中国の人ロの半分を占める女性たちは、未来永劫にわたって回復不可能な二等人となり、二度と再び他の半分である男性と平等になることはなかった。かくして、男を生めば「弄璋」(璋をっかむ)といい、女を生めば「弄瓦」(瓦をつかむ。古代、女子が生れると糸巻を与える習慣があった)といった。そこで、「婦は服するなり」、「婦人は人に伏すなり」ということになり、「女子と小人(奴僕)は養い難し」とか、「三従四徳」を守れとか、「餓死しても小事であり、貞節を失うことの方が大事だ」といった価値観が生れた。中国の女性は、数千年間もこのような哀れな境遇の中でもがき苦しんだのである。ずっと後の今世紀初頭になって、民主革命(辛亥革命)のかすかな光が彼女たちの生活にさしこみ、こうした状況初めてわずかばかりの変化が生れたのであった。
* 女は幼い時は父に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従うという三従を守り、婦徳、婦言、婦容、婦功の四つの徳を持たねぱならない、という儒教の教え。
唐代三百年間の女性たちは、この数千年来低い地位に甘んじてきた古代女性たちの仲間であった。彼女たちは先輩や後輩たちと同じように、農業を基本とする男耕女織の古代社会において、生産労働で主要な位置を占めず、経済上独立できなかった。この点こそ、付属品・従属物という彼女たちの社会的地位はどの王朝の女性とも変わらない、という事態を決定づけたのである。しかしながら、唐代の女性たちは前代や後代の女性たちと全く同じだというわけでもなかった。先学はかつて次のように指摘したことがある。「三千年近い封建社会の女性に対する一貫した要求は、貞操、柔順、服従にほかならず、例外はきわめて少なかった。もし例外があるとすれば、それは唐代の女性たちにほかならない」(李思純「唐代婦女習尚考」『江村十論』、上海人民出版社、一九五七年)。筆者は、さらに一歩進めて次のように言うことができると思う。唐代の女性は中国古代の女性たちの中でわりあい幸運な部類であったと。なぜなら、彼女たちは他の王朝、とりわけ明清時代という封建末期の女性たちに比べると、社会的地位はあれほどまでに卑賤ではなく、また蒙った封建道徳の束縛と圧迫もやや少なめであり、まだ比較的多くの自由があった。『古今図書集成』(清の康煕帝の命にょり編纂された類書)は、別の角度から一つの傍証を与えてくれる。この類書の「閨節」「閨烈」(共に道徳的模範となる婦人を収録した巻)の両巻に収録された烈女節婦は、唐代にはただ五十一人でしかなかったが、宋代には二六七人に増え、明代にはついに三万六千人近くに達した。これらの数字の差がこれほど大きいことから、唐代の女性と後代の女性が封建道徳から受ける被害の程度に大きな差があったことが十分みてとれる。これはまさに唐代の女性のユニークにして幸運な点であり、そしてこうした幸運はまさに唐代という時代が与えてくれたものであった。
唐代とはどのような時代であったのか。どうして彼女たちに、このような幸運を与えることができたのだろうか。その理由は二つの方面から説明することができる。まずは、三百年間も続いた大唐帝国は、まさに輝ける封建時代の盛世に言り、封娃道徳も後世のように厳格で過酷な段階にまでは発展していなかったからである。封建支配者が人々の肉休と精神を禁縛する千段としての封建道徳は、もともと支配者の必要に従って一歩一歩発展してきたものである。支配者というものは、いつだって世も末になればなるほど、人々の頭脳、身体、七情六欲を、女性の足とともに取り締まる必要があると感じるようになり、封建道徳もまた彼らのこうした感覚が目ましに強まるにつれ、いよいよ厳格に、かつ周到になっていった。
* 『礼記』の記載にある喜、怒、哀、馥、愛、悪、欲の七情と、生、死、耳、日、ロ、鼻の六つから発する欲。
先秦時代(秦の始皇帝以前の時代)から唐代以前まで、どの時代にも常に女道徳を称揚する人がいたけれども、大休において支配者たちはまだそれほど切迫した危機感がなかったので、女性に対する束縛もそれほど厳重ではなく、彼女たちもまだ一定の地位と自由をもっていた。ただ宋代以降になると、支配者たちは種々の困難に遭遇し、自分に対して日ごとに自信を喪失したので、道徳家たちはそこで始めて女性に対するしつけを厳格にするようになった。明、清という封建時代の末期になると、封建道徳はますます厳格になり、完備して厳密になり、残酷になり、ついには女性を十八界の地獄の世界に投げ込むことになった。まさに封建社会の最盛期にあった唐朝は、非常に繁栄し強盛であったから、支配者たちは充分な自信と実力を持っており、人々の肉体と精神をさらに強く束縛する必要を感じなかったため、唐朝は各方面でかなり開明的、開放的な政策を実施したのである。このようにして、唐代の社会はその特有の開放的な気風によって古代の輝かしい存在となった。こうした社会の気風はおのずから女性たちの生活の中にも波及し、もともと比較的緩やかであっ・た封建道徳を強化発展させなかったばかりか、逆にいくらかの方面で弱めさえしたのである。
もう一つの重要な原因は、唐代は漢民族が「胡化」(西・北方民族への同化)し、民族が融合した時代であったことである。この時代においては、少数民族の文化、習俗の影響はきわめて強烈であり、それらは社会生活の各領域に漆透し、中原の漢民族の道徳観念に大きな打撃を与えた。いわゆる「胡化」の風習には二つの来源があった。一つは唐朝の李姓の皇族自体が北方少数民族の血統であり、彼らはかつて長期にわたって北方少数民族と生活を共にし、また釈が族が樹てた北魏から台頭し、その後、鮮卑族を主とする北朝政権を直接継承したがゆえに、文化、習俗において北朝の伝統を踏襲し、「胡化」の程度がきわめて深かったのである。唐は天下を統一すると、さっそくこれら北方少数民族の習俗を中原にもたらした。まさに朱子が論じたように「唐の源は夷秋であったから、家庭の礼儀作法に欠けるところがあったのも不思議ではない」のである(『朱子語類』巻言一六、歴代三)。
さて、来源の第ニは、唐代には各民族の間の交際と国際交流が空前の繁栄をみ、雄渾な精神をもっていた唐朝が「蛮夷の邦」の文物や風習に対しても来る者は拒まず差別なく受け入れ、さらに「胡化」の風習が日ごとに盛んになるのを助長したことである。当時、唐の周辺にあった少数民族の国々には、鮮卑はもちろん、その他に突坂、契丹、吐谷渾、党項などがおり、彼らの婚姻関係はどこもかなり原始的であった。それゆえ女性の地位はわりに高ぐ、極端な場合には女尊男卑できえあって、女性の受ける拘束も少なく、比較的自由奔放であった。たとえば、盛唐時代の少数民族出身の将軍安禄山は自らについて、「胡人は母を先にし、父を後にする」(『資治通鑑』巻二I五、玄宗天宝六載)といったことがある。「その俗は、婦人を重んじ男子を軽んずる」少数民族もあった(『旧唐書』南蛮西南蛮伝・東女国)。女性が権力を掌握する制度や習俗をまだ保持している民族や国家もたくさんあって、日本、新羅、林邑、東女(唐代、中国南方の少数民族)等の国には女王、女官がいたし、また回屹、突叛等の民族でもよく女君主が攻治を行うことがあった。その他に、北方少数民族の大半は遊牧民族であり、女性たちは農耕や織物をする中原地区の女性とは異なり、馬に乗って放牧したり、狩猟をしたりして、大砂漠や大荒原を縦横に駆けまわったので、しぜんに一種の剛悍、勇武、雄健の風を身につけた。少数民族の気風の影響を受けて、北方の女性は古来地位はわりに高く開放的であった。北朝の顔之推は、「鄴(北朝の都、現在の河北省臨潭県)下の風俗では、もっぱら家は女で維持されている。披女らは訴訟をおこして是非を争ったり、頼みごとに行ったり、人を接待したりするので、彼女らの乗る車で街路はふさがれ、彼女らの着飾った姿は役所に溢れている。息子に代って官職を求め、夫のために無罪を訴えているのである。これは恒、代(鮮卑族の建てた北魏王朝が最初に都を置いた現在の大同一帯の古地名)の遺風であろうか」(『顔氏家訓』治家)と述べている。これら異民族の習俗と北朝の遺風は、李氏による唐王朝の娃国とその開放的な攻策によって、絶えることなく中原の地に泗々として流れ込み、さらに唐王朝の広大な領域に波及し、もとからあった封娃的な道徳と束縛に強烈な打撃を与えた。
以上のような種々の原因によって、唐朝はこの王朝特有の「家庭の風紀の乱れ」、「封建道徳の不振」という状況を生みだした。こうした状況は後世の道学者たちの忌み嫌うところとなったが、しかし逆にこの時代に生きた女性たちにはきわめて大きな幸運をもたらし、彼女たちが受ける抑圧、束縛をいささか少なくしたので、彼女たちは心身共に比較的健康であった。こうして、明朗、奔放、勇敢、活発といった精神的特長、および独特の行勤や風格、思想や精神などが形成されたのである。 歴史絵巻は私たちに唐代の女性の生き生きとした姿を示してくれる。
彼女たちはいつ到出して活動し、人前に顔をさらしたまま郊外、市街、娯楽場に遊びに行き、芝居やポロを見粧レた。毎年春には、男たちと一緒に風光明媚な景勝地に遊びに行き、思うぞんぶん楽しむことさえできた。「錦を族め花を攬めて 勝遊を闘わせ、万人行く処 最も風流」(施肩吾「少婦遊春詞」)、「三月三日 天気新なり、長安の水辺 麓人多し」(杜甫「麗人行」)などの詩句は、みな上流階級の男女が春に遊ぶさまを詠んだものである。
彼女たちは公然とあるいは単独で男たちと知り合い交際し、甚だしくは同席して談笑したり、一緒に酒を飲んだり、あるいは手紙のやりとりや詩詞の贈答をしたりして、貞節を疑われることも意に介さなかった。白居易の「琵琶行」という詩に出てくる、夫の帰りを待つ商人の妻は夜半に見知らぬ男たちと同船し、話をしたり琵琶を演奏しあったりしている。それで、宋代の文人洪邁は、慨嘆して「瓜田李下の疑い、唐人は磯らず」(『容斎三筆』巻六)といった。
* 「瓜田に履を入れず、李下(すももの木の下)に冠を正さず」の格言に基づく、疑われやすい状況のたとえ。 彼女たちは「胡服騎射」を好む気風があり、胡服戎装(北方民族の軍装)をしたり、男装したりすることを楽しみ、雄々しく馬を走らせ鞭を振い、「暫を露わにして〔馬を〕馳聘せた」(『新唐書』車服志)またポロや狩猟などの活勤に加わることもできた。杜甫の詩に「輦前(天子の車の前)の才人(女言弓箭を帯び、白馬は哨誓く黄金の勒。身を翻し天に向かい仰ぎて雲を射る、一箭正に墜つ双飛翼(夫婦鳥)」(「哀江頭」)と描写されている。馬上で矢を射る女たちの何と雄々しき姿であることか。 彼女たちは勇敢かつ大胆で、よく愛しよく恨み、また、よく怒りよく罵り、古来女性に押しつけられてきた柔順、謙恭、忍耐などの「美徳」とはほとんど無縁のようだった。誰にも馴れない荒馬を前にして、武則天は公衆に言った。「私はこの馬を制することができる。それには三つの物が必要だ。一つめは鉄鞭、二つめは鉄樋(鉄杖、武器の一種)、三つめは短剣である。鉄鞭で撃っても服さなければ馬首を鉄樋でたたき、それでもなお服さなければ剣でその喉を断つ」(『資治通鑑』巻二〇六、則天后久視元年)と。この話は唐代の女性たちに特有の勇敢で、剛毅な性格をじつに生々と表わしている。
彼女たちは積極的に恋愛をし、貞節の観念は稀薄であった。未婚の娘が秘かに男と情を通じ、また既婚の婦人が別に愛人をつくることも少なくなかった。女帝(武則天)が一群の男寵(男妾)をもっていたのみならず、公主(皇女)、貴婦人から、はては皇后、妃娘にさえよく愛人がいた。離婚、再婚もきわめて普通であり、唐朝公主の再婚や三度目の結婚もあたりまえで珍しいことではなかった。
こうした風習に、後世の道学先生たちはしきりに首をふり嫌悪の情を示した。『西廂記』『人面桃花』『箭女離魂』『蘭橋遇仙』『柳毅伝書』等の、儒教道徳に反した恋愛物語が、どれも唐朝に誕生したことは、このJもよい証拠である。
彼女たちの家廠における地位は比較的高く、「婦は強く夫は弱く、内(女)は剛く外(男)は柔かい」(張鷺『朝野命載』巻四)といった現象はどこにでも見られた。唐朝の前期には上は天子から下は公卿・士大夫に至るまで、「恐妻」がなんと時代風潮にさえなったのである。ある道化の楽人は唐の中宗の面前で、「かかあ天下も大いに結構」(孟柴『本事詩』嘲戯)と歌ったことで、章皇后から褒美をもらったという。御史大夫の裴談は恐妻家としてたいへん有名であったばかりか、妻は恐るべしという理論までもっていた。妻たちが家で勝手気ままに振舞っているのを見聞したある人は、大いに慨嘆して次のようにいった。「家をもてば妻がこれをほしいままにし、国をもてば妻がそれを占拠し、天下をもてば妻がそれを指図する」(于義方『黒心符』)と。
この時代には、まだ「女子は才無きが便ち是れ徳なり」(清の石成金の『家訓齢』が引く明の陳眉公の語)という観念は形成されていなかった。宮廷の妃娘、貴婦人、令嬢から貧しい家の娘、尼僧や女道士。娼妓や女俳優、はては婢女にいたるまで文字を識る者がきわめて多く、女性たちが書を読み文を作り、詩を吟じ賦を作る風潮がたいへん盛んであった。これによって唐代には数多くの才能ある女性詩人が生れたのである。女道士の魚玄機はかつて嘆息して、「自ら恨む 羅衣の 詩句を掩うを、頭を挙げて空しく羨む 榜中の名(女に生れて詩文の才を発揮できないのが恨めしい。むなしく科挙合格者の名簿を眺める)」(「崇真観の甫楼に遊び、新及第の題名の処をrる」)と詠んだ。この詩句は、女性が才能の点で男性に譲らぬ自信をもってはいるが、男とともに金榜(科挙合格者発表の掲示板)に名を載せ、才能を発揮できない無念さをよく表している。
以上の説明でも、まだ鮮明なイメージをもてないならば、永泰公主(中宗の七女、武則天の孫娘)等の墓葬壁両、張萱の描いた「貌国夫人游春図」などの絵両、さらには大量に出土した唐代の女俑(墓に副葬された女型の人形)をち太っと見てほしい。そうすれぱ唐代の女性の、あの「胡服騎射」の雄々しい姿、胸もあらわな妖艶な姿を実際に目で見ることができ、開放的な時代の息吹きを強く感じることができると思う。まさに「三寸金蓮」(纏足で小さくされた足)に折り曲げられなかった自然の足のように、彼女たちはまだ完全には封建道徳によって束縛、抑圧されて奇形になってはおらず、なお多くの自然らしさと人間らしさを保っていた。ここに彼女たちの幸運があった。
まさに唐代の世相と女性たちが、武則天のために皇帝を称する雰囲気をつくり、足場を用意し、チャンスを提供してやり、彼女に太宗の妃妾から高宗の皇后になり、さらに政治に参与し、皇帝になる機会をかち取らせたのである。また、朝政を握った後、彼女がさらに一歩進んで国号を改め皇帝を称する可能性を開き、しかも社会や朝臣にそれを受け入れさせたのである。さらにまた、彼女が古今の歴史に通じ、政治の機微を知り臨機応変に対応することができる政治的トレーニングと剛毅、果断な政治家的素質を身につけて、高宗を威圧し、群臣を思いどおりに勣かし、反乱を鎮圧し、それによって女帝の玉座を安泰なものにするようにしたのである。
唐代の卦たちが武則天という天の騏女(奔放で尊大な女性)を世に押し出し、そして武則天が女帝になっなごとは、男尊女卑の伝統観念を揺り動かし、当時の女性の地位と社会の気風に影響を与えずにはおかなかった。彼女は皇帝を称するという、この驚天勤地の行為によって男尊女卑に挑戦しただけではなかった。彼女は権力掌握の後にも、また意識的に様々な手段で女性の地位を高めたのである。たとえば内外の命婦(天子から称号を賜った貴夫人)を率いて、古来ただ男性だけで挙行していた祭礼に女性も参加させた。また、皇后の身分で命婦と百官を一緒に招き、宣政殿での盛大な宴会に参加させた。武氏の親族の夫人たちを召見し、あわせて宴席に招待した。また故郷の婦人で八十歳以上の者を郡君(四晶官の官僚の妻に授与された封号)に封じた。さらにまた、子は父の喪には三年服し、父が在世の時には母の喪にただ一年服せばよいという古来の礼の規定に異議を提出し、まず父が在世でも子は母の喪に三年服すという礼制を公布施行した。それにまた、古今の才女を大いに顕彰したりもした。これらの措置によって男尊女卑という社会全体の基本状況が変革されたわけでばなかったが、しかし確実に当時の気風に影響を与え、女性の地位を高めたのである。
唐の李商隠のはなはだ興味深い文章「宜都の内人」に、次のような話がある。武則天には男の愛人が多すぎたので、ある内人は婉曲に諌めようと思い、彼女に次のような道理を説いた。「古来からずうっと女は男より卑しいものでした。ただ貴女様だけが真の天子になることができたのです。ただ女は陰、男は陽でございますから、陽が尊であれば必ず陰は卑となります。陽が消えて陰はは犬じめて志を得ることができるのです。男妾が多すぎれば、勢い必ず陽が勝ち陰が衰えて、天下は長く続くことができません。ですから男妾を退けて独り天下に立つべきでございます。こうして一億年もたてば、男は益々勢いを削がれ女は益々勢いを専らにして行きます。私の願いはここにあるのでございます」(『全唐文』巻七八〇)と。この宜都の内人は、武則天が皇帝を称したことから、なんといつの目にか陰と陽を顛倒し、乾と坤を逆転し、男が勢いを削がれ女が勢いを専らにする世界をつくろうと思ったのである。このような考えはじつに大胆というべきではないか。上記の話は真実か否かは断定できないが、もし事実だったとしたら、そうした考えは唐代の女性だからこそ考え得ることである。そして少なくとも唐代の、武則天が皇帝を称した時代に、人々が有史以来宇宙の法則であると考えてきた男尊女卑に懐疑と異議を提出したことを示している。たとえこの話が根も葉もないことだとしても、唐朝の士大夫である李商隠がこのような文章を虚構として書いたということ、これは武則天の皇帝即位が人々の心の中にある伝統的な男尊女卑の観念を確実に揺り動かしたことを表している。ずっと数百年も後の明代になってもまだ、武則天に対して「女の分際で男を統治し」、高位高官たちが「男なのに女に事えた」と、大い仁憤慨した人がいる(袁黄等『綱肇合編』巻二二「唐朝総論」上)。武則天が皇帝に即位したということが、伝統的観念に与えた衝撃がいかに強烈なものであったか、影響がいかに深刻なものであったかが分かる。
当然次心ように言うべきであろう。唐代の社会の気風と女性の地位は女帝をつくり出したが、女帝の方もルた時代の気風を推し進め助長したと。上に列挙した唐代の女性たちの開放的で躍動的な姿と生活について、武則天の功績が全くなかったなどと誰がいうことができようか。