詩の訳注解説をできるだけ物語のように解釈してゆく。中国詩を日本の詩に換えて解釈とする方法では誤訳されることになる。 そして、最終的には、時代背景、社会性、詩人のプロファイルなどを総合的に、それを日本人的な語訳解釈してゆく。 全体把握は同系のHPhttp://chubunkenkyu.byoubu.com/index.htmlを参照してもらいたい。
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(Ⅱ-3)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》3.)呂后のまきかえし
2018年3月26日 |
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●古代中国の結婚感、女性感,不遇な生き方を詠う 三国時代の三曹の一人、三国時代の「詩神」である曹植の詩六朝謝朓・庾信 後世に多大影響を揚雄・司馬相如・潘岳・王粲.鮑照らの「賦」。、現在、①李白集校注詩全詩、②昌黎先生集全40巻他全詩、③杜詩詳注、④花間集、⑤玉臺新詠、⑥薛濤詩 全訳注解説 |
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中国史・女性論 Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性 目次 §-1 呂后と戚夫人との葛藤 1.)大風の歌と鴻鵠の歌 2.)高祖と戚夫人 3.)呂后のまきかえし 4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着 5.)威夫人の末路 §-2 政権を手中にした呂太后 1.)呂太后の専権 2.)劉氏への迫害と呂氏の専横 3.)無為の政治 §-3 項羽と劉邦の人物評価 1.)家柄・性格の相違 2.)阬殺と「法三章」 3.)漢中放棄と懐王の弑殺 4.)将に将たるの器 5.)劉氏政権の強化と保持 6.)死に望んで |
(Ⅱ-2)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》2.)高祖と戚夫人
2018年3月25日 |
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(Ⅱ-2)中国史・女性論 《§-1 呂后と戚夫人との葛藤》2.)高祖と戚夫人 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10350
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中国史・女性論 Ⅱ 漢の高祖をめぐる二人の女性 目次 §-1 呂后と戚夫人との葛藤 1.)大風の歌と鴻鵠の歌 2.)高祖と戚夫人 3.)呂后のまきかえし 4.)「鴻鵠の歌」―趙王への愛着 5.)威夫人の末路 §-2 政権を手中にした呂太后 1.)呂太后の専権 2.)劉氏への迫害と呂氏の専横 3.)無為の政治 §-3 項羽と劉邦の人物評価 1.)家柄・性格の相違 2.)阬殺と「法三章」 3.)漢中放棄と懐王の弑殺 4.)将に将たるの器 5.)劉氏政権の強化と保持 6.)死に望んで |
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(11)中国史・女性論 《§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察》
2018年3月22日 |
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767年-236 雨四首其一(卷二○(四)頁一七九八)注(1248) Ⅲ 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10333 |
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花間集 訳注解説 (400)回目《孫光憲巻八07河瀆神二首其一》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10355 (03/21) |
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(11)中国史・女性論 《§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10336 |
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(11)中国史・女性論 《§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10336
§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察
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中国史・女性論 |
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項羽と虞美人
§-3 楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争の文化的考察
これまで楚・漢の抗争を、もっぱら楚王項羽と漢王劉邦との武力抗争としてとらえてきたが、この抗争は楚の文化圏と漢の文化の楚漢抗争の史的意義ともいうべきものについても、考えなければこの戦いを真に理解することはできない。
この戦いの舞台はまず、漢王がわの文化圏である渭水・黄河文化圏、中原(漢)文化圏と准水(准河)・長江華k流域の文化圏ともいえる項羽がわの楚文化圏との対立抗争でもあるということである。
漢王の劉邦は淮河流域、沛の出身ではあるが、かれの集団は、渭水・黄河文化圏(漢文化圏)をふまえた勢力であるのに対し、楚王項羽の集団は、准河・揚子江文化圏、それは准河中・下流域の西楚と、江東とよばれた長江下流域の東楚との文化圏を代表する勢力であったといえるのである。東楚は春秋・戦国時代の呉および越の地であり、西楚は旧楚国が前三世紀なかごろ以後移ってきた安徽省および江蘇省北部地区なのである。
戦国時代以来、あるいは、それよりもはるか以前から、准河および長江流域の楚民族は、渭水・黄河流域の漢民族とは相互に交流はあっても、かなり異色の文化をもっていた。湖北省江陵(荊州)は春秋・戦国期の楚国の都城郢の地―〔江陵縣城の北五キロ〕―であり、その都城址は1960年代なかば以後1980年代にかけて発掘調査が行われ、『楚都紀南城』という報告書も出刊されている。都城址の発掘とともに楚墓群についても発掘がつづけられているが、たとえば、1965年発掘の望山楚墓一号墳からの出土品をみても、漆器をはじめ竹筒・銅器の類にいたるまで、その一つ一つに楚国文化の特異性がうかがわれる。この望山楚墓の時代は、戦国期の前五世紀中葉に比定される。
なお江陵の楚墓については、近年一九七八年にも十三座の木廓墳が発掘され、木桶・彩絵の木鹿をはじめ漆盆・銅兵器や、おびただしい陶祭器類(罍・盉・琀・鼎・奠・壷)が出土している。
このほか楚国の遺物については、1954年6月にも長江をこえた江陵の南方にあたる湖南省長沙市南郊の左家公山からも戦国時代の木廓墳が発見されて多数の楚国の漆器類が出土しているが、これらにみえる図紋は、いずれも中原のものとはいちじるしく異なっている。さらに時代はやや下って、武帝以前の漢代初期のものと推定される長州、馬王堆一号古墳からの出土品をみても、ただに文物や図紋ばかりでなく、思想・宗教・民俗・民話などあらゆる点で『楚辞』にみるような楚国文化の異質性が漢初ご櫓もなお根強く保たれていることがわかる。
このことは江陵や長沙などの湖北・湖南の楚國本地ばかりではない。前三世紀に楚の第三次国都となる安徽省寿県から、1935、6年ごろ楚墓が発見されているが、准河上流の信陽県長台関の楚墓からの出土品などによれば、准河流域の西楚地区にも江陵・長沙の楚国本地に匹敵する楚国伝統の豪華な文化が栄えていたことが知られる。
これらによると、長江の中・下流域から准河流域にかけては、渭水・黄河文化圏とは明らかに異なる楚の文化圏が形成されていたのである。
項羽集団はこの楚文化圏を代表する勢力であって、これが渭水・黄河流域の漢文化圏(中原文化圏)を基盤とする劉邦集団と激しく抗争し、この戦いの結果、項羽が敗死し、やがて劉邦が天下を統一して、漢帝国を創建し高祖を称すると、高祖は叔孫通や婁敬や陸賈らの儒生たちを登用して、しだいに武から文への転換を行いはじめ、やがて旧楚国領の各地には劉氏一族が封建された。このことを『漢書』巻二十八、「地理志」巻第八下、には
(前略)漢が興ると、高祖は兄の子の濞を呉王としたが、王は盛んに天下の游士を招いた。(中略)准南王の安(景帝、武帝時代の人)もまた寿春(寿県)に都して賓客を招き『准南子』などの書物を著した。こうして漢朝では文章辞賦が盛んになったため『楚辞』も世に伝わることになった。云云 (楚地の条)
といい、なかでも西楚の寿春に都した准南王の劉安は、賓客・方術の士数千人を招致したという。
こうして楚・漢抗争がおさまり、漢帝国が興ると、それまで職にあぶれていた儒生や方術の士は、争って封建諸王・侯のもとに仕官したり、あるいは食客となった。とくに旧楚国領に封じられた諸王・侯のもとには、中原から多くの知識人がおしかけ、かれらは楚国文化と中原の漢文化との交流・融合に大きな役わりをはたした。漢初の呉・楚七国の乱や准南王安の謀反事件の背景にも、これらの人びとが関係していたといわれる。
ちなみに、准南王安の謀反事件に、その食客たちが思想的に関係していたことについては、金谷治『秦漢思想史研究』第五章、第一節を参照されたい。
このように、旧楚国領の封建諸侯と中央の漢室との間には、漢初以来文化闘争といってもよいような軋轢がくりかえされており、とくに武帝以後は、中央集権の強化と儒学が漢朝政治の指導原理になったことなどとあいまって、中原の礼教文化は、時の経過とともに、いよいよ旧楚璧化を包摂し吸収していった。こう考えるとき、そのきっかけをなした楚・漢抗争の文化史的意義の大きさは見逃せない。
2018年3月21日 |
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(10)中国史・女性論 《§-2 垓下の戦い》4. 項羽の死にざま 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10322 |
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(10)中国史・女性論 《§-2 垓下の戦い》4. 項羽の死にざま 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10322
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項羽と虞美人
§-2 垓下の戦い
1. 垓下の詩 -⑴
1. 垓下の詩 -⑵
2. 虞美人について
3. 項羽の最後
4. 項羽の死にざま
10. 項羽の死にざま
ところが、項羽は烏江にたどりついたとき、渡し船をととのえて待っていた烏江亭長の申し出を拒み、ついに、かれは渡河を断念して江畔でみずからくびはねて果てたという。項羽のこの突然の心境の変化は、いったいなんであろうか。それは、つぎのような烏江亭長のことばではなかったか。
烏江の亭長は船を用意して待っており、項王にいうよう「江東は小さいとは申せ地方千里、人口は数十万人いまして、王として不足はありません。どうか大王よ、いそいでお渡り下さい。いま船をもっているのは臣だけです。漢軍が来ましても渡ることはできません。」
おもうに、烏江亭長のこのことばほど、誇り高き項羽の心を打ったものはなかったであろう。ここまで項羽を支えてきたのは、「垓下の詩」にもあるように、山をも抜く武力と一世をも蓋う気力への自負であった。というよりか、項羽はかれのこの自負心を、これまではじぶんを見すてようとする天の悪意に対置させることによって、孤独な自己をからくも支えてきたのであった。それは人間失意のとき、たれしもよくみる強がりであり虚勢である。それでも核下までは、まだ愛する虞姫がかたわらにいたため、大きななぐさめとなったであろう。しかし虞姫を失った―かの女は前述したように、おそらく東城付近で落命したものと思われる―うえに、従う部下も戦死したり、あるいは脱落したりして、目にみえて減っていくのをみるにつけ、項羽はいよいよ内心の孤独感を深めたことであろう。
項羽が東城で従騎の二十八人を前にして「天がわれを亡ぼすのだ、それは天のせいなのだ、わが用兵のせいではない(天之亡我、非戦之罪也)といっているのは、従騎に対するよりも、むしろかれ自身の孤独感へのいいきかせであり、自身に対する抗弁であるといえるであろう。
いや『史記』の著者司馬遷は、このときの項羽に代わって、このように推測したのである。司馬遷は「項羽本紀」末尾の論賛に
項羽は自ら功伐に衿り、その私智を奮って古を師とせず、覇王の業は力をもって征しようと欲し、天下を経営すること五カ年、ついにその国を亡ぼし、その身は東城で死んだが、なお覚寤ずして自ら過ちを責めようとしなかった。むしろ天が我を亡ぼすので、わが用兵の罪ではないといい張るが、なんと謬まったことであろうか。
といって、項羽はただおのれの力を過信するあまり、ついに国をほろぼし、一命をも失ったが、かれは最後までこれを天のせいにして、わが謬りに気づかなかったと難じている。
しかし、この司馬遷の非難は、四面楚歌の悲境に立って、たのむ部下を失い、愛人すらも失って、必死に孤独感との戦いをつづける人間項羽の心情に対する思いやりに欠けるうらみがある。
これまでの数年間、優勢をとりつづけて負けることを知らなかった身が、垓下の決戦に敗れてからは、急転直下敗残の淵に落ちこんで、たれ一人として頼るもののなくなったいま、項羽の誇り高い性情と強い自負心とが、天意に対する虚勢ともみえる強がりのことばや、姿勢となったのであろう。
こうして孤独にうちひしがれそうな自分を、からくも支えつつ烏江にたどりついた項羽では あったが、ここで思いもかけず烏江亭長から、肉親にもまさる温かいはげましを聞いて、これまで張りつめてきたかれの誇りと自負心とは、音をたててくずれ去ってしまった。そしてかれをして
さきに籍(項羽の名)は、江東の子弟ら八千人と江を渡って〔秦をほろぼすため〕北上し、また西征したが、いまはそのうちの一人も還るものがない、縦い貴下のいうように、江東の父兄たちが憐れんでわれを王としようとも、われなんの面目あってか、かれらに見えられようか。縦いかれらが(子弟たちを戦死させたことを)言わずとも、籍独り心に像じないでおられようか。
といわしめているが、この瞬間に項羽ははじめて天命を自得し、ついに一武将としての人間性にめざめたのではなかったろうか。
たとい江東の父兄、憐れんで我を王とするも、我何の面目あってか、これに見えん
とは、まさに古今の名将たちが、いくたびか口にしたことばであり心境である。
司馬遷は「項羽は敗北を最後まで天のせいにして、自己の謬りに気づかなかった」と難じているが、項羽はその最後の瞬間において天命を自得し、人間性の真実に立ちかえったものだとわたくしは考える。でなければ、かれの口から決してこのような語は吐けなかったであろう。
こうして項羽は、烏江亭長の真情あふれる申し出を拒みつつも、その厚い情義に深い感謝をこめて
わたしは、そなたがりっぱなお人だということがわかった。この馬はわしが五年間騎ってきたが、向かうところ敵はなく、かつては一日に千里を駈けた名馬です。これを殺すにはしのびないので、そなたにさし上げよう。
といって愛馬の騅を与え、従騎たちにも下馬を命じて歩行させ、鎗をすて短兵をもって接戦したのち、みずから首刎ねて死んだのであった。
2018年3月20日 |
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花間集 訳注解説 (3)回目《孫光憲【字解集】-10菩薩蠻五首其一~五》 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10341 (03/20) |
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(9)中国史・女性論 《§-2 垓下の戦い》3. 項羽の最後 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10315 |
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(9)中国史・女性論 《§-2 垓下の戦い》3. 項羽の最後 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10315
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中国史・女性論 |
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項羽と虞美人
§-2 垓下の戦い
1. 垓下の詩 -⑴
1. 垓下の詩 -⑵
2. 虞美人について
3. 項羽の最後
4. 項羽の死にざま
10. 項羽の最後
垓下の戦いの劉邦軍の主力は、准陰侯韓信のひきいる軍士たちであったが、戦いに敗れた項羽は、逃れて南のかた揚子江畔の烏江(安徽省南京市の西南対岸)めざし退去していった。かさねて『史記』の「項羽本紀」をみると、項羽の最後をドラマチックにもりあげている。
それによると、別れの酒宴を終わったのち、項羽は夜陰に乗じ麾下八百余騎をひきいて漢軍の重囲を突破して南走し、准水を渡渉してようやく陰陵(江蘇省定遠県の西北)にたどりついたものの、この間一〇〇余キロあまりの強行軍に従う騎馬は百余騎にすぎなかった。そのうえ道に迷って大沢中にふみ入り、ついに漢の追討軍に追いつかれる羽目になった。
そこでかれは東方に道をかえて東城(定遠縣の東南)にゆきついたときには、従騎はさらに減って二十八騎にすぎず、背後にせまる漢騎は数千、とうてい逃れがたいことを覚った項羽が、その部下たちをふりかえって言ったことばは、
われ兵を起こしていまにいたる八年、自ら戦うこと七十余戦、いまだかつて敗北したことなく、ついに天下の覇者となった。しかるに、いまここで、このような羽目になったのは、天がわれを見すてたからで、わが戦いの拙ないせいではない。いまじぶんは死を決意した。
そこで諸君のためにこれから決戟し、三たび戦ってかならず勝ち、諸君のために敵の囲みをやぶり、敵将を斬りその旗をうばって、諸君に天がわれを亡ぼすので、わが戦いの拙ないせいではないことを知らしてやろう云云。(『史記』「項羽本紀」)
この『史記』 の一文は、司馬遷がさきの「垓下の詩」に対応させて記述したものであろう。項羽は「わが力は山を抜き気は世を蓋う」ほどと過信する自己の武力と気力とを、いまや死を目前にしながらも、部下たちに誇示しようと決意した。そしてかれはその決意どおり、約束どおり、漢軍の先鋒と戦って、敵将と一都尉とを斬り、数十百の敵をたおし、また敵の手から旗をうばったのであった。
こうして項羽は、ここでも敵の重囲をやぶって脱出し、東南のかた烏江に走った。『史記』には「ここにおいて項王は東のかた烏江を渡らんと欲す」とあって、この瞬間まで項羽は烏江(南京の西南対岸、安徽省)から揚子江を渡って、かれが最初に兵をあげた江東に逃れ、再起をはかる考えであったことを伝えている。(「楚・漢戦争関係略図」参照)
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項羽と虞美人
§-2 垓下の戦い
1. 垓下の詩 -⑴
1. 垓下の詩 -⑵
2. 虞美人について
3. 項羽の最後
4. 項羽の死にざま
2. 虞美人について
劉邦の愛妾戚夫人が楚の舞を舞ったことに関連して、項羽の寵姫虞美人についてもみてみよう。
『史記』には虞は名といい、『漢書』は姓というが、おそらく『漢書』の万が正しく、虞はこの女性の姓であろう。伝えられるところでは、虞姫の一族は、山東の領主斉国の官僚であったが、斉国が家臣の田氏に奪われると、虞氏一族は田氏討伐に向かった項羽軍に内応しょうとして、その企てがばれ、かの女が十四 五歳のとき両親も田氏の軍に斬られたため、天涯の孤児として路傍に投げ出されていたところを、折りよく行軍中の項羽の目にとまって救い出され、やがてまだ正妻をもっていなかった項羽の愛妾として陣中に留められ、楚・漢の戦いの数年間を通じて、常に項羽と形影相伴いつつ、ついに垓下にたどりついたのであった。このような項羽と虞姫との出会いは運命的というほかあるまい。
ちなみに、虞美人の「美人」は、普通名詞ではなく、劉邦の愛妾戚夫人や唐の玄宗皇帝の寵姫楊貴妃などの「夫人」とか「貴妃」などと同じく、後宮の女官の位階を示す名称で、楚王項羽の寵姫虞氏の意である。
さて唐の張守節の『史記正義』には、陸賈の『楚漢春秋』によったとして、垓下の帳中での項羽の垓下の詩に唱和して虞姫も
漢兵己略地、四万楚歌声、大王意気尽、賎妾何柳生
(漢の兵はすでにわが地を略し、四方に楚歌の声がする。わが大王(項羽)の意気は、つきてしまったうえは、妾もなんぞ生を安んじられようぞ)
とうたったという。この虞姫の詩について、前記の『楚漢春秋』には、後世の付加、ざん入が多いという点から、学者のあいだに、後人の偽托とする説もある。しかしこの五言詩が、たとい後人の偽托であるにしても、最後まで項羽に殉じようとする虞姫の一途の心情をよく詠みあらわしているといえよう。虞姫こそは、楚・漢抗争のかげに散った一輪の名花といえよう。
『史記正義』は、唐初の魏王泰らの撰である『括地志』を引いて
虞姫の墓は、濠州定遠県(安徽省定遠県)の東六十里に在る。長老たち伝えいう、項羽の
〔虞〕 美人の塚である。
といえば、かの女の墓所は、安徽省東城の近くに在ったことが知られる。かれこれ思いあわせると、かの女は、項羽に従って垓下の囲みを脱出したのち、項羽が陰陵で道にふみ迷って、漢の追討軍に追いつかれ、従騎二十八人とともに、東に道をとって東城におもむく途上で、項羽にみまもられながら、そのみじかい生を終えたもののようである。
さすれば、たとい薄命ではあったにしても、かの女は幸せな最後をとげたものといえよう。事実ははたしてそのようであったか、どうかはわからないが、すくなくとも、その墓の所在を信じるかぎり、このように推測しておきたい。
ともあれ、虞姫は楚漢戦争のかげに咲いた一輪の美人草であった。美人草といえば、わが国の謡曲『項羽』は、観世二代目の世阿弥―室町初期、足利義満に仕える―の作といわれ、項羽と虞美人とを立役にするが、この書は当初、『美人草』という題名であったという。楚漢の戦いのかげに咲いた項羽と虞姫との悲恋物語は、かなり古くからわが国にも伝、えられていたことがわかる。
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1. 垓下の詩 -⑴
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2. 虞美人について
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4. 項羽の死にざま
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(5)中国史・女性論 《項羽と虞美人》5.楚・漢の抗争 漢文委員会kanbuniinkai紀頌之の漢詩ブログ10287
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項羽と虞美人
§-1 楚・漢の抗争
1.秦末の群雄蜂起
2.項梁と項羽の挙兵
3.劉邦の人となり
4.鴻門の会
5.楚・漢の抗争 (劉邦の挑戦)
5. 楚・漢抗争 -劉邦の挑戦
さて、秦都威陽に入城した項羽は、三世黄帝子嬰を殺して秦朝をほろぼすと、つぎには叔父項梁が擁立した懐王義帝をも彭城から追放し、みずから「西楚の覇王」と称して天下に号令し、群雄諸侯を各地に封じて論功行賞を行った。そのとき項羽は、さきの懐王と諸侯との約束―関中に一番乗りした者が関中の王に封じられる―を無視して、まっ先に入関した劉邦を漢王として、巴(四川省重慶地方)、蜀(四川省成都地方)、漢中(陝西省南部)を与え、西南の四川省境に近い辺地の南鄭(陝西省南鄭縣)に封じこめ、みずからは中原をふくむ九郡を領有して東のかた彭城に都した。
劉邦を巴蜀の地に封じた項羽のいい分は「巴・蜀もまた関中の地である」であったが、なんとも苦しい自己弁護をした(同時に人物の小ささを天下に示した)。
南鄭に移封された漢王劉邦は、項羽が咸陽をすてて彭城に東帰すると、またたく間に関中全域を併せて檪陽(西安市の東北)に本拠を移し、項羽の論功行賞に不満をいだく関東の諸侯と気脈を通じつつ、たまたま漢二(前二〇五)年項羽が義帝を弑殺すると、その無道を難じて宣戦を布告したので、りっぱな大義名分をかかげた挑戦であることになった。
紀元前206年、まず田栄が田都を殺して自ら斉王になった。そして、のちに劉邦に付いて活躍した彭越を将軍として軍を派遣し、梁(旧魏の地)を攻撃させた。
かつて張耳の同志であった陳余は、秦によって趙が攻められて張耳が籠城したときに救援しなかったことで仲違いしており、項羽から何も与えられなかったことを不満に思っていた。そこで陳余は張耳を攻めて趙を占領し、元の趙王である趙歇を迎えて趙王にした。この功績で陳余は趙歇より代王とされた。敗れた張耳は逃れて劉邦の下へ奔った。
そして紀元前205年、項羽の最大の敵である劉邦が漢中より出て、関中を陥れた。
項羽は大いに怒ったものの、まずどれを討つべきかを迷った。しかし劉邦から「項羽と敵対するつもりはない」という手紙が来たので、まず斉を討つことに決めた。田栄は抵抗したものの項羽に敗れ、逃亡したところを農民によって殺された。しかし項羽はこれで満足せず、斉の城を次々と落とし、捕虜を穴埋めにし、各地を焼いて回った。このため斉の民衆は怒って項羽に反抗し、さらに田栄の弟の田横が斉の残兵を集めて抵抗したので、平定することが出来なかった。
項羽が斉で苦戦していることを見た劉邦は、諸侯との連合軍56万人を率いて項羽の本拠・彭城を陥落させた。このことで劉邦と諸侯軍は浮き足立って軍律が乱れ、連日城内で宴会を開き、略奪を行い、女に乱暴する、という状態になった。このことを聞いた項羽は激怒し、自らが選んだ精兵3万のみを引き連れて彭城へと戻り、油断していた劉邦たちを散々に打ち破った(彭城の戦い)。
紀元前204年、劉邦は何とか逃げ出して滎陽(河南省滎陽市)にて篭城し、項羽軍もこれを追撃して滎陽に至った(滎陽の戦い)。その間に、斉では田横が田栄の子である田広を立てて斉王とし、斉一帯を制圧した。
追い詰められた劉邦であったが、陳平や紀信の策を用いて脱出し、関中に戻ると蕭何の用意した兵士や物資で体勢を立て直した。この時に英布を自らの陣営に取り込むことにも成功している。
そこで両雄は、いよいよ中原をはさんで東西に対決することになったが、史書はこれを「楚・漢の抗争」という。関中から出撃した劉邦は、彭越たちに命じて項羽の後方を撹乱させ、これに乗った項羽は彭越の方へと軍を向けた。この隙に劉邦は秦の食料集積地であった敖倉の食料を手に入れ、滎陽の北の広武山に陣した。彭越たちを追い散らした項羽は、戻ってきてその向かい側の山に対陣した。
彭越たちは項羽軍の後方撹乱を続けたので、項羽は食糧不足に悩んだ。漢軍では途中で劉邦が負傷したこともあって、両軍共に和睦を望むようになり、劉邦軍の弁士・侯公が使者となって和睦し、天下を二分することを取り決めて両軍が引き上げることになった。
劉邦はそのまま引き上げる気でいたが、張良と陳平は、楚軍が本拠に帰って英気を養った後では漢軍は到底敵わなくなるだろうと考え、劉邦に楚軍の背後を襲うべきだと進言した。
劉邦はこれに従って楚軍を後ろから襲ったが、敗北した。これに先立って韓信と彭越に共同軍を出すように使者を送ったが、2人は来なかった。劉邦がこれに対する恩賞を何も約束しなかったからである。張良にこれを指摘された劉邦は、韓信を斉王とし、彭越を梁王とする約束をした。果たして2人は軍を率いて加勢し、兵力で圧倒した漢軍は楚軍を垓下(今安徽省宿州市霊璧県南部)へと追い詰める(垓下の戦い)。
さて楚・漢抗争の主要な舞台は、太行山脈が黄河および洛水をよぎるあたり、今日の河南省中央部の滎陽から氾水のあいだであり、それは中原をめぐる関西方(関中)の漢軍と関東万の楚軍との争覇戦であった。両雄はここで死闘をくりかえすこと五カ年、戦いは終始楚王項羽の優勢裡にすすめられ、漢王劉邦は父母妻子を捕えられて人質にされるなど、いくたびか最後かと思われる苦境に立ったが、劉邦のねばり強さと、張良・陳平らの智謀と韓信・廬綰らのすぐれた戦略と、さらには蕭何の政略とに助けられて、ついに垓下の決戦で項羽をたおし、勝利の栄冠を握ることができた。
さて楚・漢抗争中における項羽と劉邦との戦いぶりをみると、まさに項羽の武力と劉邦の智力との戦いであった。項羽は自分の武力に絶大の自負をもつのに対し、劉邦は、かつて成皋の広武山に楚・漢両軍が対峙したとき、項羽が
願わくば漢王に戦いを挑み雌雄を決せん。
と詰め寄ると、劉邦は笑いながら、
われわれはむしろ智を闘わそうとも、力を闘わすことはできない(『史記』第七巻、「項羽本紀」)といって、武力ではかなわないが、智力で闘おうと、かるく項羽の挑戦をかわしている。項羽の挑んだのは一個人の武力であり、匹夫の勇であるが、劉邦の智力とは、そのブレーンたちの衆智を結集した総力であった。したがって、このときも項羽が短期決戦を挑んだのに対し、劉邦は長期持久をのぞんだ。劉邦はもちまえの包擁力と忍耐力とで衆智、総力を結集して最後の勝利をかちえたのであった。